イタリアでは「障害者の支援・社会統合・諸権利」という法律の中で、幼稚園から大学まで全ての学校教育段階で、インクルーシブ教育が保障される「障害のある子どもの教育と学校教育の権利」を謳っています。

 

この法律を根拠として、しょうがいのある子どもだけを対象とした、日本でいうところの「特別支援学校」(嘗ての養護学校)のようなものは廃止されました。

 

日本でも「フルインクルーシブ教育を目指す」という言葉を耳にするようになったし

 

実際、国立市の教育大綱の中にも明記されました。

 

でもね。

果たして、真の「フルインクルーシブ教育」が、1つの基礎自治体で実現できるのでしょうか。

 

 

今日の総務文教委員会で…

特別支援の必要な子どものための学級を第六小学校に新たに開設するという補正予算案が提出されました。

 

特別支援学級を希望する生徒は年々増えていて、10年前の凡そ8倍。

少人数での指導を行う学級なので、現在の学級数ではすでに足りなくなりつつあるのです。

 

委員会の質疑では、「なぜこんなに希望者が増えているのか」という問いかけがありました。

 

担当課長が答えていた「子どもの発達しょうがいに関する情報が増え、保護者が選択肢として考えるようになった」ということも一理あると思います。

 

さらに、「専門性の高い教員のもとで学習させたい」という保護者が増えてきたことも要因ではないかと考えています。

 

特別支援学級が「通常学級では学習できない子どもの学習場所」というというネガティブな考え方から、「通常学級より学習しやすい学びの環境」と、前向きに捉えられるようになったのかもしれません。

 

特別支援学級の増設に反対する質疑の中では…

 

「発達障害者支援法」の基本理念(第二条の二)を挙げて…

 

発達障害者の支援は、全ての発達障害者が社会参加の機会が確保されること及びどこで誰と生活するかについての選択の機会が確保され、地域社会において他の人々と共生することを妨げられないことを旨として、行われなければならない

 

この最後の部分を強調されていましたが…

 

でも、私はむしろ…

 

発達障害者の支援は、全ての発達障害者が社会参加の機会が確保されること及びどこで誰と生活するかについての選択の機会が確保され、地域社会において他の人々と共生することを妨げられないことを旨として、行われなければならない。

 

この「選択の機会が確保され」という一文にこそ、法の理念の本質があると思っています。

 

「特別支援学級」という選択肢を取り上げ、しょうがいのある児童を現状の通常学級に通わせるのがインクルーシブ教育ではありません。

 

 

前述したイタリアのインクルーシブ教育には、それを支える制度的な仕組みがあります。

 

・障害の認定

・機能診断書

・機能プロフィール

・個別教育計画書

 

これらの書類を提出し、支援教員など、個人のニーズに応じたインクルーシブ教育を申請することができるのです。

 

とくに、個別教育計画書は、医療関係・教育心理士・ソーシャルワーカー・家族の協力により、担任教員・支援教員・支援員により作成される書類です。

 

個別のニーズを把握して、学習だけではない、個人に応じた生活学習能力向上を保障しているのが、イタリアのインクルーシブ教育なのです。

当然、ひとつの教室に居る個々のニーズを持つ子どもそれぞれに、マンツーマンで教員や機能訓練士などがついています。

 

もともとの学級編制も20人ほどで少人数です。

 

ここまでできて、ようやくインクルーシブ教育と言える教育体制が出来上がります。

 

 

現状の予算と人員と教室の数では、かんたんに実現できることではありません。

 

国を挙げて学校のシステムを変えていかなければ、イタリアのような個別支援はできないのです。

 

そもそも…

「通常学級に全ての子どもを通わせる」ということに違和感を持ちます。

 

弱い立場の子どもと統合教育を行うなら、「普通学級」に通わせるのではなく、全ての子どもを「特別支援学級」(もしくは特別支援学校)に通わせるべきなのではないでしょうか。

 

座っていることが難しい重度しょうがいを持つ子どもは、通常学校のスタイルで授業を受けることはできません。

 

特別支援学校のような寝ころべる床の上で機能訓練を行いながら(同じ姿勢だと身体が湾曲してしまうので)過ごすのが普段の学校(特別支援学校)での授業の受け方です。

 

目が見えない子どもや、耳が聞こえない子どもは、どのように過ごすことになるのでしょうか?

 

1つの教室で、1人の先生の指導で授業を受けることは困難です。

 

嘗て…

「聞こえる人に合わせることが社会生活に役立つ」との考え方から、ろう学校で手話が禁止されたことを思い出しました。

 

「手話」という、聴覚しょうがい者にとってはたいせつな言語を、共生のためという名目で取り上げたのです。

 

フルインクルーシブ教育は、ひとつの理想かもしれません。

しかし、やり方を間違えれば、子どもにとってはただただ選択肢が減るだけの、本末転倒な苦行になりかねません。

 

 

さらに…

イタリアの教育が一概に素晴らしいとは言えない点もあります。

 

学習速度が遅いので、OECDの調査では、読解力・数学・科学の順位がとても低く、国際的に学力の低さが目立っています。

 

慢性的な教員不足で、専門的な授業の教師は親たちがその報酬を負担するようなこともあるうようです。

 

子どもの自主性を尊重するので、大学に進学しても卒業する学生はとても少ないのだそうです。

 

国の教育のあり方として、何をたいせつにすべきかも考えなくてはいけませんね。

 

フルインクルーシブ教育は、小さな自治体で不用意に試してよいことではありません。制度改正の狭間で、誰かが犠牲になることだけはあってはならないからです。

 

 

今日の答弁で雨宮教育長が、「フルインクルーシブ教育を語る会」を創設する旨の発言をされていました。

 

とても良いことだと思います。

 

 

ぜひ、当事者や保護者のリアルな声を広く聞きながら、国立市の目指すべき教育のあり方を、しっかりと考えてくださいね。