ただ今「議会アタマ」になっているので、ブログも固い内容になりがちです。

長文なので、興味のある方だけご覧くださいね(^^;)

 

議会中・・・

「国立市はフルインクルーシブ教育に舵をきった」という言葉を何度も耳にしました。

この言葉を聴くたびに、私は心がざわつき、微かな怒りと悲しい気持ちが込み上げてきます。

 

あまりに心が落ち着かないので、今夜は、このテーマについて、思いきって書こうと思います。

 

   クローバー クローバー クローバー

 

そもそも、「フルインクルーシブ教育」とは、どのようなものなのでしょうか?

 

「障害のあるなしに関わらず、すべての子どもが地域の普通学校の、同じ教室で学ぶこと」、のように捉えている方が多いように感じます。

 

『みんなの学校』という映画をご存知でしょうか。
大阪の大空小学校のドキュメンタリーで、「すべての子どもが安心して学んでいる奇跡の学校」として注目され、称賛され、全国で上映会が行われています。

 

特別支援学校や特別支援学級に通っていた子どもたちが、公立の普通小学校の通常クラスでみんなと一緒に学び、共に成長する様子が描かれる、素晴らしい映画です。

ある意味、理想の教育現場です。

 

たしかに、通常学級で他の子どもたちと一緒に学ぶことで成長できる子どもも居るでしょう。
その可能性がある子どもは、どんどんチャレンジすれば良いし、そのための環境整備は行政が行うべきだと思っています。

 

だから私は、議員になって最初の仕事を「インクルーシブ教育の推進」と決めて、合理的配慮の促進やスマイリースタッフの増員などをお願いしてきました。

 

 

だけど・・・

それは、他の方たちが云う「フルインクルーシブ教育」のためなどではないのです。

 

文部科学省のデータベースによると・・・

国立市がモデル地域となった「インクルーシブ教育システム」は、人間の多様性の尊重等を強化し、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能にするという目的のもと、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みです。

 

そこでは、障害のある者が一般的な教育制度から排除されないこと、自己の生活する地域において初等中等教育の機会が与えられること、個人に必要な「合理的配慮」が提供されることなどが必要とされています。

 

ここで、だいじなのは「障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能にする」というというくだりです。

 

例えば、ウチの息子のような、座ることも難しい重度の障害をもつ子どもを普通学校の通常学級に通わせることで、精神的及び身体的な能力を可能な最大限度まで発達させることができるのでしょうか?

 

 

それは、子どもの学齢期という脳の発達に最も重要な時期に、適切な療育の機会を奪い取ることに等しい行為だと、私は思うのです。

 

嘗て、障害を持つ子どもが「就学猶予」の名のもとに、学校に行くことを免除される(実質的には学校へ通う機会も教育の権利も奪われる)時代がありました。

 

私の息子でさえ、就学猶予の通知によって養護学校への入学を拒否されたのです。(東京都の教育委員会と文部省に異議を申し立て、就学させていただきましたが…)

 

すべての子どもに教育の権利を与えてほしいと、親と教員が必死で運動し全国に養護学校が設置されましたが、一方で養護学校の設置に反対する人たちもいました。

 

「障害は個性である」として、「その個性をあるがままに認めるべき」という考えから、障害を軽減するための専門的な治療や訓練を否定し、さらにはその子の発達を促すための教育そのものも否定するという考え方だったようです。

 

でも、ウチの息子のように重度の障害児に治療や訓練を行わなければ、カラダの麻痺と硬直で呼吸することも難しく、社会参加どころか、生きていくことも適わない状態となるでしょう。

 

先ずは、子どもが生きるためのリハビリと身体のケア。
そして、子どもが人生を楽しむための療育。

 

親が我が子の学校に求めるのは、楽しく生きるための学びの場なのです。

 

医療的ケアが必要だった息子は、親の送迎と付き添いを条件として養護学校に通うこととなりましたが、付き添ったことで、教育現場の素晴らしさを知ることができました。

 

息子の担任となったN先生が、入学したての息子に最初に与えた課題は「学校ではオムツを外しましょう」というものでした。

 

「ありえない!!!」と思いました。

 

先生は、ウチの息子をあまりにも知らなすぎる!
寝たきりで意思表示もできない息子のオムツを、どうやって外すというのかしら。

 

半信半疑の私をよそに、先生はまず息子のために、座位保持装置の付いた専用のトイレを特注で作りました。

 

お昼の経管栄養のあと、そのトイレに座らせて、お腹を擦りながら「おしっこしよう」の歌を唄うのです。

 

5分も10分も先生は唄いつづけます。

 

私は申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

「先生。そんなことやっても、ウチの子には無理ですよ・・・」

 

毎日、毎日、先生は唄いつづけました。

 

ところが・・・

一週間経ったとき、ついに息子がトイレでおしっこをしたのです。

 

偶然かなとも思いましたが、次の日も、その次の日も、息子は先生の歌を聴きながらおしっこをしたのです。

 

それから亡くなるまでの3年間・・・

息子は、学校でオムツをすることはありませんでした。

 

手厚い特別な支援のできる養護学校だったから、できたことだと思っています。
(現在は「特別支援学校」という名称に変わっています)

 

重度の障害児には、残念ながら合理的配慮だけでは十分な学びの場を提供することはできません。
ひとりひとりの個性に合った丁寧な療育でなければ、享受することなどできないのです。

 

「すべての子どもが地域の普通学校の、同じ教室で学ぶこと」が、果たして子どもの教育を受ける権利と言えるのか…

 

子どもたちがようやく手にした「特別な支援」を、再び取り上げることにならないか…

 

 

インクルーシブ教育を推進しようとしている首長、教育長、そして議員の方々は、もう一度しっかりと考えてください。

 

「フルインクルーシブ教育」という名の下に、そこから排除されるごく少数の子どもたちが居ることを、どうか忘れないでください。