韓流時代小説 後宮に蝶は舞いて~Everlasting love~【朝鮮烈女伝異聞】
嫁いで四日目に夫を失った少女孫雪鈴(ソン・ソリョン)。夫の死の悲しみも冷めやらぬある日、舅と姑から夫に殉死するように迫られー。
朝鮮王朝時代、夫に先立たれた未亡人は、しばしば婚家から不当に自害を強いられることがあった。いわゆる「烈女」制度が引き起こす悲劇だ。寡婦となった妻は亡き夫に操を立て見事に生命を絶つことが何よりの名誉とされる思想があり、婚家の義両親は、その栄誉を受けたいがために嫁に死を迫ったのだ。
朝鮮王朝中興の祖と民から愛された王、直祖と王を支え続けた賢后・孝慧王后の出逢いから、数々の苦難を経て成婚に至るまでを描く。
ローダンセ 花言葉ー変わらぬ愛
*****
雪鈴は意を決して面を上げた。
「こちらのお屋敷に来て、もう半月になります。以前より元気になりすぎるくらい元気になりました。こうしてご厄介になるばかりで申し訳なく思っているのです。ゆえに、私に何か仕事をさせて頂けないでしょうか」
コンからは、しばらく声がなかった。雪鈴はもう一度繰り返した。
「下女として働けないでしょうか」
コンが即答した。
「そのようなことは気にせずとも良いのだ」
ここで諦めるつもりはなかった。
「お世話になるばかりでは、かえって心苦しいのです。お願いですから、何でも良いので仕事をさせて下さい」
コンは難しげな表情で考え込んでいる。
雪鈴は食い下がった。
「毎日、部屋に閉じこもっていては、かえって身体が鈍(なま)ってしまいます」
緊迫した一瞬、コンがホウッと息を吐き出した。
「そなたはまったくもって頑固だな。可愛い外見に似合わぬ」
コンの綺麗な顔がくしゃりと笑った。
「そなたの気が済むなら、そなたにも何か仕事を任せるようにスチョンに話しておこう」
雪鈴は意気込んだ。
「ありがとうございます」
彼には本当に返しきれないほどの恩がある。何より、実の両親にさえ見捨てられた雪鈴の心は、彼のお陰でどれだけ救われたことか。
自分で言うのも何だが、雪鈴は両班家の令嬢として大切に育てられた身だ。苦労も世間も知らず、コンのために何かしたいという想いだけはあれども、実際にはどこまで役に立つか知れたものではない。
それでも、今の自分にできる限りのことをしたい、彼のために尽くしたいと本気で願った。
雪鈴が眼を輝かせていると、眼が合った。コンが何故か眩しげに眼を細め、視線を逸らす。まるで夏の太陽を見ているかのようだ。
彼はひとしきり窓の方を見つめていた。しばらく心地良い静寂が室を満たす。
ふいに、パサパサと音が響き、鳥の影が障子窓に映じた。窓の側に植わった樹から鳥が飛び立ったらしい。
翼をひろげて飛び立つ鳥が障子窓を通して、影絵のように見えた。それは雪鈴に胸苦しいほどの記憶を呼び覚ました。
幼い頃、父と母に連れられて、一度だけ町に出掛けたことがある。地方の村々を巡り歩く影絵芝居の一座が来たと評判になり、雪鈴は両親にねだって連れていって貰ったのだ。
父も母も四人目で漸く恵まれた一人娘には、周囲が呆れるほど甘く、殊に父は雪鈴を掌中の玉と愛でた。ある人は
ー娘を嫁にやるつもりはないのではないか。
と、父をからかうくらい、雪鈴を溺愛していたのだ。
生まれて初めて眼にする影絵芝居に、幼い雪鈴は胸を躍らせた。幕の向こうに様々な形の影が映し出され、自在に動くのはまさに手妻のように見えたものだ。
父と母に両側から手を引かれ、胸を轟かせながら背伸びをして見ていると、父が雪鈴を抱き上げ、ちゃんとよく見えるようにしてくれた。雪鈴の小さな身体を抱き上げた父の腕は逞しく、どこまでも頼もしかった。母はそんな良人と娘を幸せそうに見ていた。
遠い日の懐かしい記憶に、涙が出そうだ。
あの日、雪鈴にこの上なく優しかった両親がああもあっさりと我が身を見限るとは。いまだに信じられない、悪い夢を見ているかのようだ。義両親に死ねと迫られたより、実の両親からも暗に死になさいと言われたことがずっと辛い。
雪鈴は滲んだ涙を眼裏で乾かした。いきなり泣き出そうものなら、コンにまた不愉快な想いをさせるだけだ。
コンは相変わらず雪鈴を見つめているが、先刻までと異なり、静まった瞳は感情が読めない。
ふと彼が静寂を破った。
「そろそろ名前くらいは教えてくれないか?」
次いで早口で言う。
「屋敷で働くというなら、名前を知らないと不便だ」
まるで言い訳のような口調だ。雪鈴は一瞬、躊躇った。コンが信頼できる人だというのは知っている。名前くらいは告げても支障はないだろう。
無難なのはやはり偽名を使うことだけれど、彼に嘘は言いたくない。もっとも、雪鈴はこれだけ世話になりながら、コンに一切の事情どころか素性も明かしてはいない。
けれど、それは特に嘘をついているというわけではないのだ。黙っていることは嘘ではないと思いたいのは、詭弁だろうか。
雪鈴は小さく息を吸い込み、ひと息に言った。
「雪鈴」
最後まで偽名を名乗ろうと思っていたのに、気がつけば本名を告げていた。
コンが呟いた。
「ソリョン。どのような字を?」
雪鈴が微笑んだ。
「冬に降る雪と、鳴る鈴です」
コンが納得したように幾度も頷いた。
「冬に降る雪と、鈴が鳴る、か」
彼は改めて雪鈴を見つめ、微笑んだ。
「そなたにふさわしい美しい名だ」
コンの漆黒の双眸にほのかな熱が点る。雪鈴とコンの視線が交わり、炎を孕んだかのように熱を帯びた。戸外はまだまだ厳寒の寒さなのに、室内が急に熱くなったようだ。
雪鈴の胸の鼓動がトクトクと煩くなり、静かな室内ではコンに聞かれてしまうのではないかと気が気ではなかった。
先に視線を逸らしたのはコンの方である。
彼は何か急用を思いついたかのように立ち上がった。
「働きたいというそなたの気持ちは判るが、あまり無理はするな。雪鈴」
彼が初めて雪鈴の名を呼んだ瞬間だった。彼に名を呼ばれただけで、どうしてこんなに頬が熱くなるのだろう。世界中で一番幸せな女人だと感じるほど嬉しいのだろう。
コンの去り方はいかにも不自然で、逃げるかのようでもある。
雪鈴はそれが哀しかった。もしや、雪鈴の恋情が隠しきれておらず、態度に現れていたのかもしれない。我が身はあまりに稚(おさな)く、恋が何たるかを知りもしなかった。恋を知らずに親が決めた相手に嫁ぎ、その良人との間に情を通わせる暇もなく、良人は亡くなった。
雪鈴にとって、コンは恩人であると共に、初恋の男であり、恋とはどのようなものか教えてくれた人でもあった。
所詮は実らぬ恋だし、自分の複雑な事情を考えれば、彼の側に長くは居られないのも判っている。けれど、せめて許される中は少しでも長く彼の側にいたい。自分の居場所が彼の隣であれば良いなんて、高望みはしないから、せめて遠くから彼の笑顔を時々眺められるだけで十分だから。
コンが去った後、雪鈴はひっそりと涙を流した。彼女にはこれが恋の涙だと判っている。
初めて流す恋の涙は、不思議と甘かった。彼を想うと辛くて苦しいのに、でも幸せだ。
コンの側に少しでも長く居たいなら、この想いをけして表に出してはならないし、彼に気づかれてもならない。
彼はこの上なく親切で優しいけれど、あくまでも彼は人として当然のことをしているだけにすぎない。雪鈴でなくとも、他の誰でもコンならば助けたに違いないのだ。彼の親切を絶対に自分の都合良く勘違いしてはならない。雪鈴の恋心を知れば、コンは迷惑がるだろう。流石に優しい彼も雪鈴をこのまま屋敷に置くことはしないはずだ。