韓流時代小説 後宮に蝶は舞いて~Everlasting love~【朝鮮烈女伝異聞】
嫁いで四日目に夫を失った少女孫雪鈴(ソン・ソリョン)。夫の死の悲しみも冷めやらぬある日、舅と姑から夫に殉死するように迫られー。
朝鮮王朝時代、夫に先立たれた未亡人は、しばしば婚家から不当に自害を強いられることがあった。いわゆる「烈女」制度が引き起こす悲劇だ。寡婦となった妻は亡き夫に操を立て見事に生命を絶つことが何よりの名誉とされる思想があり、婚家の義両親は、その栄誉を受けたいがために嫁に死を迫ったのだ。
朝鮮王朝中興の祖と民から愛された王、直祖と王を支え続けた賢后・孝慧王后の出逢いから、数々の苦難を経て成婚に至るまでを描く。
ローダンセ 花言葉ー変わらぬ愛
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蝶のいざない
青年は長い吐息をついた。もうかれこれ半日以上ここーつまり同じ場所に陣取って釣り糸を垂れているのだが、哀しいほど獲物がかからない。腹立たしいのを通り越して、いっそ滑稽なほどだ。
元々、釣果はさほど期待できないのは毎度ながら、それでも川魚一匹くらいの成果はあるのだが。この有り様ではスチョンにまた長い嫌みを言われる羽目になるだろう。
彼は口煩い乳母の顔を思い出し、露骨に嫌そうな顔をした。物心つく前に生母を失った彼にとって、スチョンは実の母も同然だ。
彼が十にもならない年、父は後添えを迎えた。とはいっても、彼の母は正室だったわけではなく、母が亡くなったから後妻を迎えたわけではなかった。
父は女運が悪いらしく、まだ十代の頃に迎えた最初の妻は蒲柳の質で結婚後三年でみまかった。当時の王族の習いで、側妾はあまた侍らせていたものの、正式な妻を持とうとはしなかったのだが、遠縁にも当たる時の国王直々に妻帯せよと命じられ、渋々、後妻を迎えることとなった。
それが今の継母だ。最初の妻同様、継母も子に恵まれなかった。悪い人ではないと判ってはいるけれど、実子がいないせいか、何かと彼を構いたがり、うっとうしいことこの上ない。
父には彼の他、男子に恵まれなかった。両手で数えてもまだ足りないほどの側妾を持っているとは、何という好き者なのか。我が父ながら閉口する。もっとも、彼自身も父をとやかく言えたものではないとの自覚はある。
側妾の数が多ければ、当然、生まれる子の数も増える。父には彼も含めて総勢二十五人の子がいるが、何と息子は彼一人なのだ。
継母が彼を構いたがり、母親面したがるのは恐らく、その辺りもあるに違いない。元々、父には庶子しかおらず、しかも二十四人は娘で、彼だけが男子だ。父と息子、どちらも望むと望まざると拘わらず、一人しかいない息子が父の跡を継ぐことになる。
打算と言ってしまえば気の毒だが、継母が彼に何かと親切なふりをするのは先々も考えてだろう。とはいえ、彼の父は王族とはいえ、当代の国王とは親戚とは名ばかりで、実のところ他人同然である。
確か父の祖父と今の国王の祖父が従兄弟だったのではなかったか?
「いや、違ったか」
彼は首をひねり、苦笑いした。実際、我が家系なんぞ王族とはいえ、今の国王一家とは殆ど血の繋がりがないようなものだ。つまり、下町を歩く民とさほど変わらないという理屈だ。
跡継ぎといっても、彼が父から受け継ぐものといえば、父が住んでいる貧相な屋敷と猫の額ほどの領地でしかない。継母が幾ら彼の顔色を窺おうとも、彼には財産と呼べるほどの代物は何らないのだ。他にあるとしたら、王族というたいそうな肩書きだけ。
彼は手製の釣り竿を河に投げ込んだまま、両手を後ろにつき、ぼんやりと空を見上げた。
たかだか王族だからって、何だっていうんだ?
想いはいつものところに辿り着く。王族だ両班だからといって、何が、どこが民と違うのだろう。この国は国王を頂点に戴く徹底的な身分社会だ。両班でなければ人ではないと吹聴する輩も少なくはない。
だが、王族の端くれとして生まれたのは、何も彼自身の徳でもない。たまたま運が良かっただけだ。なのに、身分や生まれだけで人の価値を決めつけるのは随分とおかしなことではないか?
幼い頃、父に訊ねたら、父は蒼くなって彼の口を手で塞いだ。
ー滅多なことを言うものではない。そなたは曲がりなりにも国王(チユサン)殿下(チヨナー)に連なる王族なのだぞ。
小心な父は常に国王に遠慮して、気紛れに呼ばれれば、それこそ犬が尻尾を振るように参内する。体の良い暇つぶしに気が向いたときだけ思い出し、酒宴に呼ばれることがこの上ない名誉だと勘違いしている。
けして口には出さないが、あれでは妓房の幇間(たいこもち)と同じレベルではないか。
まあ、父は父、自分は自分だ。父の女運の悪さを間近で見てきた彼は、結婚にはまったく希望を見いだせなかった。お陰で二十六になってもいまだ花の独身を謳歌している。
独り身だとしても不自由は一切ない。女が欲しくなれば、身分を隠して色町の妓房に登楼し妓生と一夜の夢を楽しむ。
彼はけして遊廓でも馴染みを作らない。女というのは情が深くなればなるほど、纏いついて離れない紐のように絡みついてくる。彼は後腐れのある関係はご免だ。
女は乳母のように、さっぱりした気性が好もしい。もっとも、乳母は口が悪すぎるし、歳もゆき過ぎているが。
彼はとても美しい面立ちをしていた。廓の女どもは彼が馴染みを作らないのをかえって
ー文陽君さま(ムンヤングンマーマ)はつれないところがかえって良いわぁ。
とか余計に色めきたっているようだけれど、妓生たちのそんな熱の上げようも彼にはどうでも良いことだ。
女は一時、身体の火照りを鎮めてくれさえすれば良い。
そんな彼だから、絶対に素人娘には手を出さない。良民相手なら、愛してもいない女に一生、男としての責任を持たねばならない。
側室にでもしてやらねば、娘が笑い者になるからだ。女に冷淡でも、一夜を共にした未婚の娘をあっさり捨てるほど彼は無責任な男ではなかった。
まかり間違って両班の娘と関わりを持とうものなら、これ幸いとばかりに娘の父親が彼を嘉礼の祭壇の前に引っ張ってゆこうとするだろう。
王族という身分、端麗で風流を好む文陽君は両班の令嬢たちの憧れ、格好の花婿候補であった。油断は禁物だと普段から心得ている。
所詮は名ばかりの王族だ。このまま独身を貫くのも、いっそ清々しくて良いとすら考えている。
彼は小さな溜息をついた。このまま川辺で釣り糸を垂れていたとしても、獲物はどうにも期待できそうにない。河のすぐ側にいるということもあり、吹く風は余計に冷たさを増している。そろそろ夕刻だ。今日は見切り時と諦め、潔く帰るべきなのかもしれない。
彼が釣り竿を手にし立ち上がりかけたまさにその時、前方から一陣の風が吹き付けた。かなり強い風である。彼は咄嗟に手のひらで眼許を覆い、吹き付けてくる風を避けようとした。
風は一瞬で止み、ホッとした彼の眼に銀色の光の渦が見えた。
ー何なんだ?
彼は我が眼を疑った。銀色の渦は底からくるくると回転しながら、ゆっくりと彼の方に近づいてくる。よくよく眼を凝らすと、その渦は銀色の無数の蝶たちが大群をなして群れ踊っているのであった。
ついに自分は皆が言うように頭がイカレたのか? 本気で己れの正気を疑ったほどだ。
幾ら山あいの谷間とはいえ、昼日中から銀色の蝶の大群なぞ現れるはずがない。しかも、今は冬のただ中で、冬に蝶なんてあまりにも季節外れだ。それとも、そろそろ夕刻だから、〝逢魔が刻〟の名のごとく、闇に潜む邪悪なモノが彼にあり得ない幻を見せているのだろうか。
彼は用心しながら、そろそろと銀色の蝶たちに近づいていった。ふいにくるくると舞う蝶たちが彼に近づき、彼は銀色の光に飲み込まれる形になった。