韓流時代小説 秘苑の蝶ー僕が死んでも殉死する必要はない。今度こそ幸せになれよ | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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韓流時代小説 後宮に蝶は舞いて~Everlasting love~【朝鮮烈女伝異聞】

嫁いで四日目に夫を失った少女孫雪鈴(ソン・ソリョン)。夫の死の悲しみも冷めやらぬある日、舅と姑から夫に殉死するように迫られー。

朝鮮王朝時代、夫に先立たれた未亡人は、しばしば婚家から不当に自害を強いられることがあった。いわゆる「烈女」制度が引き起こす悲劇だ。寡婦となった妻は亡き夫に操を立て見事に生命を絶つことが何よりの名誉とされる思想があり、婚家の義両親は、その栄誉を受けたいがために嫁に死を迫ったのだ。

朝鮮王朝中興の祖と民から愛された王、直祖と王を支え続けた賢后・孝慧王后の出逢いから、数々の苦難を経て成婚に至るまでを描く。

  ローダンセ 花言葉ー変わらぬ愛

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「アジョン」

 彼女は生命を賭して雪鈴を逃がそうとしている。だが、アジョンがいかほど望もうと無辜の女中を犠牲にして、自分だけがのうのうと逃げることはできない。
 雪鈴の迷いを見抜き、アジョンはそれこそ実の娘に言い聞かせるように言った。
「若奥さまはまだ、たったの十六歳ですよ。こちらの若旦那さまがお亡くなりになったのはお気の毒としか言いようがありませんけど、何も若奥さまが道連れになる必要はさらさらないんです。そんなことは、無学なあたしだって判ります」
 雪鈴とアジョンはもう一度、ひたと見つめ合った。
 アジョンの安否が気懸かりではあったけれど、逃げるなら機会は今夜しかない。まだ逡巡している雪鈴にあとひと押しとばかりに女中が言った。
「今は季節も季節なので、花は咲いていませんが、紫陽花の茂みの後ろー築地塀に穴が空いています。かなり大きな穴なので、大人でも自在に通り抜けられます。そこから逃げて下さい」
 彼女は抜け穴の存在まで教えてくれたのだ。この時、雪鈴の耳奥で亡き良人の声がこだました。
ー私に万一のことがあれば、そなたは実家に帰れば良い。操を立てて殉死しようなどと考えてはいけないよ。
 この時、雪鈴の心は決まった。
 生きよう、どこまで逃げられるか生きられるかは判らないけれど、行けるところまで行ってみよう。
 あまり長居をして怪しまれてはいけないと、アジョンは話も早々に切り上げ、一旦、母屋に戻った。
 夜が更け屋敷の者が寝静まった頃、アジョンが再びやってきて、扉の鍵を外してくれた。
「アジョン、あなたのことは忘れない」
 母にするようにアジョンに抱きつけば、アジョンもまた娘に対するかのように雪鈴を抱きしめた。
「どうか無事に逃げのびて下さいまし。そして、次に出逢う方とは今度こそ共白髪になるまで添い遂げて、お子さまをたくさん作って下さいね」
 宵闇の中、アジョンの涙が光っていた。
「鞭打たれた後が痛むかもしれませんが、痛むときはこれを塗れば楽になります。化膿止めと鎮痛効果もありますから、治りは良いと思いますよ」
 アジョンが先ほどの軟膏の入った器を渡してくれる。つかの間触れた彼女の指先は、ほんのりと温かく、何故か雪鈴はこの温もりにずっと触れていたいと思った。
 雪はすっかり止んでいたけれど、夜も更けて大気はしんしんと凍るように冷たく身に迫った。
 雪鈴はなおもアジョンを残してゆくことに躊躇いを憶え、その場を動けずにいた。アジョンが軽く雪鈴の背を押した。
「早く行って下さい」
 それを合図とするかのように、雪鈴は走り出した。走りながら、涙が後から後から溢れていた。
 優しかった良人、唯一の理解者であったアジョン。大切な人たちとの別離はあまりに呆気なく訪れ、雪鈴の前途は今、前方にひろがる一面の闇のように先が見えず、暗闇ばかりが果てなく続いている。いつまで、どこまで逃げれば安息が待っているのか。
 まったくもって予測さえつかないのだった。見上げた空には、生まれたばかりの細い月が心許なげに浮かんでいる他、星さえ見えない心細い夜だった。

 婚家を脱出した雪鈴が目指す場所は、両親のいる実家しかない。嫁ぐときは立派な女輿に揺られ多くのお付きに守られての道中だったのに、今は着の身着のまま、孤独な旅路だった。それでも、あの冷酷な義両親に閉じ込められ、死ね死ねと迫られているよりはよほど良い。
 逃げ出す時、ありったけの金を持ち出してきた。むろん、良人や婚家のものではない。入輿の際、母が持たせてくれた持参金である。
 その金を道中の路銀に充て、用心のため纏めてではなく幾つかに小分けして持った。
 セサリ町から故郷まではゆうに五日は要する遠路である。女の身で野宿はあまりにも危険すぎるため、途中は安宿に泊まり、宿の室で持ち出した金を衣服の内側に何カ所か縫い付けた。こうしておけば、身ぐるみ剥がされない限り、盗まれる不安はない。
 雪鈴が逃げ出したと知れば、当然、崔家は追っ手を放つことは判っていた。逃亡の旅を続けながらも、雪鈴はいつ追っ手に捕まるかと内心、生きた心地もしなかった。
 また義母に鞭打たれた傷跡もズキズキと疼いたけれど、アジョンが持たせてくれた軟膏のお陰で膿むこともなく傷は綺麗に癒えた。元々、傷が見かけほど深くなかったのも不幸中の幸いだったのだろう。
 最初は傷が痛んで長い距離の移動は難しかった。悪化させて足止めを食らっては元も子もないので、傷が治るまでは早めに宿を取り休み、痛みを感じなくなってから頑張って歩く時間を増やした。
 天が味方をしたのか、雪鈴は追っ手に遭遇することもなく、セサリ町を出て七日めに漸く故郷の南方の町に辿り着いた。通常であれば五日のところ、人目を避けての旅は七日もかかってしまったのである。男であれば人目につかないには夜間に歩いて距離を稼ぐ手もあったけれど、若い女の身では危険すぎた。
 かといって、日中は人目につき、追っ手に見つかりやすいという危険もつきまとう。雪鈴の旅は実に苦難を極めた、想像を絶するものとなった。
 夜、粗末な宿の狭い部屋で薄い夜具にくるまり身に迫る寒さに耐えながら、雪鈴は幾度涙を流したことだろう。
 何故、我が身がこんな眼に遭わねばならないのか。か弱い女が寡婦になっただけで、死ねと強要されるのか。〝烈女〟とは、良人を亡くした女にとってあまりに理不尽な習いだと哀しみよりは怒りに震えた。
 故郷の町に入ったときは、安堵のあまり身体中の気が抜けて、くずおれそうになった。あと少しで、温かい室でゆっくりと休める。追っ手にいつ捕まるかと怯えることもなく、心ゆくまで眠れる。
 そう思えば、心は逸った。
 けれどー。雪鈴の期待は残酷なほど物の見事に打ち砕かれた。
 故郷の町はセサリ町とほぼ同じ規模の、地方の中規模どころの都市である。孫家は地元でも勢力を持つ名家で、何代も続く両班だ。
 その屋敷は町の賑わいを抜けた外れに位置しており、都の高官の棲まいにも引けを取らない豪勢なものだ。当然、使用人の数も多かった。
 雪鈴はそんな宏壮な屋敷で何不自由なく育った深窓の令嬢だったのだ。それが今や旅の汚れを纏いつかせ、見る影もない有り様だ。絹の晴れ着を着ていては余計に追っ手の眼につきやすいため、途中で交換した木綿の質素なチマチョゴリ姿だ。
 崔家から既に連絡が入っていることを考え、表門からではなく裏門からひっそりと入った。裏門は使用人たちが主に出入りする。
 扉を開けて敷地内に足を踏み入れ、庭づたいに進むと井戸端に出る。懐かしい見慣れた風景だ。
 井戸端では丁度、若い女中が洗濯に精を出している最中だった。先に気づいたのは女中の方だ。彼女は粗末な衣服に身を包む薄汚れた娘がかつてのお嬢さまだとは気づかなかった。