韓流時代小説 後宮に蝶は舞いてー婚家を脱走~顔を思い出せない夫のために何故、殉死する必要がある? | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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韓流時代小説 後宮に蝶は舞いて~Everlasting love~【朝鮮烈女伝異聞】

嫁いで四日目に夫を失った少女孫雪鈴(ソン・ソリョン)。夫の死の悲しみも冷めやらぬある日、舅と姑から夫に殉死するように迫られー。

朝鮮王朝時代、夫に先立たれた未亡人は、しばしば婚家から不当に自害を強いられることがあった。いわゆる「烈女」制度が引き起こす悲劇だ。寡婦となった妻は亡き夫に操を立て見事に生命を絶つことが何よりの名誉とされる思想があり、婚家の義両親は、その栄誉を受けたいがために嫁に死を迫ったのだ。


朝鮮王朝中興の祖と民から愛された王、直祖と王を支え続けた賢后・孝慧王后の出逢いから、数々の苦難を経て成婚に至るまでを描く

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 冗談ではない。たった五日しか共に過ごさなかった良人のために、自害なんてできるものか。
 雪鈴はその夜、屋敷をひそかに抜け出した。約束通り、女中は夜更け、室の鍵を外しておいてくれた。義母の命で毒を仕込んだ食事は、
ー若奥さまはご気分が悪しく、何も食されたくないとのことです。
 と、適当に食べない理由を言い繕ってくれるという。 
 若夫婦の棲まいは、義両親が暮らす母屋とは離れているのも幸いした。雪鈴が監禁されていたのは、良人と五日間を過ごした離れであった。小さいながら、母屋とは完全に独立している。
 離れは最奥部にあるから、人目につかず脱出も容易なのだ。女中は更に告げた。
ー今は季節も季節なので、花は咲いていませんが、紫陽花の茂みの後ろー築地塀に穴が空いています。かなり大きな穴なので、大人でも自在に通り抜けられます。そこから逃げて下さい。
 雪鈴は自室を出て、真っすぐに築地塀に向かった。さほど大きくはない崔氏の屋敷は、どこの両班でもそうであるように周囲を築地塀で囲まれている。その一部に穴が空いているというのだ。
 言われた通り、確かに大きめの穴が空いている箇所があった。初夏には美しい花をつけるであろう紫陽花は真冬の今、花どころか葉さえ落としている。
 雪鈴は穴から外に出ると、最後に一度だけ背後を振り返った。ここで華やかな婚礼を挙げたのは、まだほんの十日ほど前にすぎないのに、雪鈴を取り巻く環境はあまりに変わりすぎてしまった。
 だが、こうなったのも、すべては運命なのだろう。変えられないのだとしたら、受け容れて前に進むしかない。
 雪鈴は若い娘にしては、現実的で思考の切り替えも早かった。唯一の心残りは、雪鈴を逃してくれたあの親切な女中だ。冷酷な義母の怒りを買い、鞭打たれるのではないか。
 けれども、流石に義母も女中の生命まで取ることはすまい。裏腹に我が身はここにいれば、確実に生命を奪われる。ここは眼を瞑り、逃げるしかないと腹をくくり、雪鈴は走り出した。もう二度と背後を振り返ることはなかった。
 その夜は心細くなるような一面の闇が空を覆い尽くしていた。生まれたばかりの新月が頼りなげに浮かんでいる他は、星たちも何かを怖れて姿を隠してしまったかのようだ。
 朝になれば、雪鈴の逃亡は義父母が知るところになる。直ちに追っ手が放たれるだろう。
夜明けまでに少しでも遠くへ逃げなければならない。その一心で、駆けに駆けた。
 天が雪鈴を憐れんだのか、追っ手に見つかることはなく、雪鈴は無事に数日をかけて南方の小さな町にある実家まで戻ることができたのだ。
 しかしー。既に連絡が入っていたのか、父は雪鈴に背を向け、ろくに話をしようともせず、母としか話らしい話ができなかった。絶望した雪鈴はまた逃げ続けなければならなくなった。そこで、彼女は思い出したのだ。亡くなった良人ハソンがくれた形見とも言うべき品があった。
 それは兎を象った愛らしい文鎮だった。女ながら書物に親しみ、書を良くすると話した妻のために、ハソンが贈ったものだ。
ー書き物をしないときは、飾りとしても使えるよ。
 あの文鎮を忘れてきた。何故、その時、自分が良人のくれた文鎮に拘ったのか判らない。人間として好感は抱いていても、〝好き〟だと思ったことも異性として意識したことさえない、他人同然の良人だった。
ー可愛い。
 笑って文鎮を見つめる雪鈴を、良人もまた微笑んで見つめていた。五日間の短すぎる結婚生活、今ではもう顔さえ朧になってしまった良人との、たった一つの想い出だ。
 何故か、その想い出を無下にはできない、してはならない気がした。雪鈴は良人の形見を取り戻すため、もう一度だけ婚家に戻ることにした。もちろん、あの抜け穴から入って離れから文鎮を取り戻したら、すぐに引き返すのだ。
 とても危険な賭だと判っていた。崔家では厳重な警戒をしているだろうから、戻れば捕まって今度こそ有無を言わさず殺される。
 それでも、良人のくれた文鎮を取り戻さないことには、彼に申し訳ないと雪鈴は抜け穴から庭に忍び入った。幸いなことに庭に人影はなく、屋敷は静まり返って以前と変わらなかった。
 雪鈴は靴を脱ぐと揃えて床下に押し込み、そっと室内に入った。帳をすべて降ろされた室内は昼間でもほの暗い。住む主(あるじ)を失った寂寥感は隠しきれなかった。
 離れはふた間続きだ。若夫婦は最奥のひと部屋を二人で共有していた。元はハソンの室だったものだ。室の片隅に二段の飾り棚がある。下段の扉を開くと、すぐに愛らしい兎は見つかった。ホッと息をつき、文鎮を袖に入れる。
 長居は無用と、また離れを出て抜け穴を目指した。そこで、天の加護も途切れたのかもしれない。
 金切り声が響き渡った。雪鈴はハッとして振り返った。視線の先に、まだ幼い赤ら顔の下働きがいた。
 掃除の途中なのか、箒を握りしめている。
ーだっ、誰か、若奥さまが。
 雪鈴は弾かれたように走り出した。下働きの声に、屋敷が俄に騒然としたのにも頓着しなかった。
 自分は馬鹿だと思った。何故、捕まることを承知していながら、わざわざ婚家に戻ったのか? 走りながら幾度も袖に手を押し当て、良人の形見の手触りを確かめた。