☆☆連載☆☆韓流時代小説 漢陽の春~月下に花はひらく
第6話では、美貌の義賊とお転婆美少女との、すったもんだ恋物語もいよいよ完結!!6話
☆これまでのお話☆
香花(ヒャンファ)は14歳。
早くに母を失い、下級官吏だったた優しい父と二人暮らしであったが、その父も病気で失った。
かつては名門として栄えたキム家であったが、今は没落の一途を辿るどろこか、香花に婿が見つからなければ、断絶になってしまう。
香花は没落した実家を建て直すため、高官の屋敷に奉公に出ることになった。 上流貴族の子どもの家庭教師として住み込みで働くことになったのだ。
だが、やがて、その屋敷の主人に惹かれ、恋に落ちる。。。
しかし、相手は愛妻を失い、いまだに忘れられず、二人も子どものいる男であった。
やがて、その男が怖ろしい国を揺るがす陰謀に荷担していることを知る香花。 それでもなお男を信じようとする彼女の前に、光王(カンワン)と名乗る美貌の義賊が現れる―。
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いつもこうなのだ。香花が落ち込んだり沈んでいると、巧みに香花の気分を引き立ててくれる。
そう思うと、不覚にも涙が湧いてくる。
ひとたび溢れ出した涙は、どうしても止まらなかった。
急に泣き出した香花を前に、光王は形の良い双眸を見開いている。
「おい、どうしたんだ。俺が言ったことがそんなに辛かったか?」
いつもの軽妙なやりとりは、二人の間では毎度のことなのだ。なのに、泣き出してしまった香花に、光王はただならないものを感じたらしい。
「俺の言ったことが―原因じゃないよな」
光王は小首を傾げ、眼を眇めるようにして香花を見つめている。
「もしかして、食欲がないのも、そのせいなのか?」
それはとんだ誤解ではあるが、どうしても懐妊のことは話せなかった。成家の嫁として認められていないこの状況での懐妊―、それを素直に歓んで良いものかどうか判らない。
だから、せめて医者か産婆に診て貰って、本当に懐妊かどうか確かめてから、報告しようと考えている。―しかし、それが光王への報告を先延ばしにするための言い訳にすぎないことを、誰よりも香花自身が知っている。
香花は怖いのだ。もし、懐妊を告げられた光王が迷惑そうな顔をしたら―。自分はもう生きてはいられないだろう。
突如として光王が立ち上がった。
「あの糞婆ァ」
脚音も荒く部屋を飛び出してゆこうとするのに、香花は背後から叫んだ。
「止めて」
「何言ってるんだ。お前がそこまで泣くのは、どうせまた、あの婆ァのせいだろう? もう、俺は我慢ならねえ。あの気取り返った糞婆ァの胸倉掴んで、一発ぶん殴ってやらないことには気が済まねえよ」
光王が怒鳴る。
「馬鹿なことを言わないで。お義母上さまは、あなたにとっては義理とはいえ、義母君なのよ? 息子が母親を殴れるわけがないでしょう」
「あんな女、母親でも何でもねえ。香花、こんな屋敷、とっとと出てゆこうぜ。俺はもう限界だ。お袋にできなかった分まで父上に孝行したいと思っていたが、これ以上、あの女と同じ屋根の下になんざ、一刻たりともいたくはねえや」
〝さ、行くぞ〟と香花の手を掴む光王に、香花は烈しく首を振った。
「駄目よ、駄目。折角、お義父上さまと仲直りして、成家の若さまとして落ち着いたばかりなのに、早まった真似はしないでちょうだい、光王」
「成家だか、何だか知らないが、俺は家門になんて、これっぽっちも興味も未練もない。元々、両班になんて、なりたくてなったわけでもなし、あの女がそれほど俺らを追い出したいのなら、望みどおり、さっさと出ていってやるまでさ」
「止めて、光王。私なら、大丈夫だから」
香花の縋るような視線に、光王は気まずげに顔を背けた。
「俺は、もう、これ以上見てられないんだよ。お前はあの糞婆ァや高慢女に何を言われても、黙って堪えてるだけじゃないか。惚れた女があんな女どもにいびられてるのを毎日黙って見てるなんて、俺にはもうできねえ」
香花はそのまま扉を開けて出てゆこうとする光王の背後まで追いかけていって、そっと両手でその背中を抱きしめた。
「ね。お願い。私のためを思うのなら、今度だけは無茶な真似はしないで、短気は止めて。一度だけ、私のお願いをきいて欲しいの」
光王の背中にぴったりと顔を押しつけているため、どうしても、声がくぐもってしまう。
「お前がこの屋敷に残ろうとするのは、どうせ俺のせいだろ。だが、言っておくけどな、俺は両班にはなりたくて―」
言いかけた光王の言葉に覆い被せるように、香花は叫んだ。
「好きな男(ひと)の幸せが私の幸せでもあるのよ、光王」
「俺は成家の当主におさまるなんて、少しも幸せだと思わないぞ」
「あなた、今、ここを出ていったら、きっと後悔するわ」
そう、必ず後になって後悔する。光王のことだから、栄耀栄華や名誉、立場といったものに未練を感じることはまずないだろう。が、折角、結び直せた父子の絆がここでまた断ち切られてしまったとしたら―、彼は先になって、絶対に後悔するはずだ。
光王は基本的に親思いの息子なのだ。
彼にも香花の思うところは、正確に伝わったらしい。光王は嘆息を落とし、腰に回された香花の手を分厚い手のひらで撫でた。
「つくづくお人好しというか、情に脆いというか。お前ってヤツは」
小柄な光王と香花では、そうしていると、まるで子どもが大人にぶら下がっているような格好になる。
「でも、俺は、そういうお前のお人好しなところが好きなんだ」
よく憶えとけよ。
照れ隠しなのか、怒ったように呟いた光王の声も心なしか、震えていた。
香花の姿が消えたのは、その夜半だった。
その夜はやはり具合が悪いようだからと、香花は自室に引き取っていった。結局、松の実粥は殆ど手付かずだった。
だから、光王も無理に引き止めはしなかったのだ。いつも香花を求めてばかりで、夜通し抱くこともしょっちゅうだったから、少し無理をさせすぎてしまったのかもしれないと、ひそかに反省したのである。
若い光王は一夜に何度も香花が欲しくなる。〝もう、今夜は寝かせて〟と懇願する香花を無理に起こして押し倒すことも再々だ。
せめて今夜はゆっくりと寝ませてやろうと思ったそのことが、かえって仇になるとは流石の彼も想像だにしなかった。
暁方、ふと気になって香花の様子を見に部屋を覗いた時、既に香花の布団はもぬけの殻だった。
「―!」
人気のない殺風景な部屋、温もりのない布団を目の当たりにし、光王は顔が強ばるのを自覚した。
香花が俺に黙って出ていった?
香花が、俺を、棄てた?
あの女が俺に何も告げずに、黙って一人で出ていったというのか!?
布団が既に冷たくなっているところを見れば、香花は夜中には出ていったのだろう。
光王は誰もいない部屋の壁にダンと、拳を打ちつけた。
大声を上げて、暴れ回りたい。
いや、今すぐ、気が狂って正気を手放してしまったら、どんなにか良いだろう。
自分は女に見棄てられたのだ。
義母や婚約者だと名乗る女に言いたい放題に言われても、何も言い返せず守ってもやらない自分に厭気が差してしまったのだろう。
光王は香花の懐妊を知らない。
それに、少し冷静になれば、香花がそのようなことをする女ではないことくらいは判るはずだ。何より、彼自身が香花の優しさを理解しているはずなのに、咄嗟に香花に棄てられたと思い込んでしまったのは、やはり香花への烈しい恋慕と執着の裏返しだろう。
そのときの彼には、香花が彼のために身を退いたのだという考えは、欠片ほども浮かばなかった。
「どこに行った? 俺から離れて、一体、どこに行ったんだ、香花」
見つけ出してやる。必ず見つけ出して、連れ戻してやる。
「お前は俺のものだ」
光王はいつになく昏い眼で呟くと、矢も楯もたまらず飛び出していった。
その日の朝の食事は、光王にとっては最悪のものとなった。黙って出ていってしまった香花のことを考えれば、朝飯を食べる気にもなれず、その時間すら惜しい。
明け方、香花の不在を知り屋敷を飛び出したまでは良かったものの、結局、心当たりにはどこにも香花の姿はなかった。むろん、今日もこれから町に出て探すつもりだ。
しかし、父や義母の手前、心ここにあらずといった様をあからさまにするわけにもゆかず、ひたすら箸を動かし、口にした食べ物を無理に咀嚼し流し込むといった動作を機械的に繰り返した。
香花の失踪は、まだ屋敷内で知る者は数えるほどしかいない。父はともかく、義母に知られたら、どのような態度に出るか判ったものではない。恐らく、このときが好機とばかりに、香花をこの屋敷から追い出しにかかるだろう。
そのため、光王は事の次第を親しくなった執事にだけは打ち分け、協力を頼んだ。自分が町に出て香花を探す間、何とか上手く言い繕って欲しいと伝えたのである。
また、香花が特に仲好くしていた二人の女中たちにも内々に、香花の出奔を話し、〝若奥さまは今朝からひどい頭痛で寝込んでいて、誰にも逢えない〟状態だということにするように命じた。女中たちは愕きながらも、快く協力に応じてくれた。
―若さま、あのお優しい若奥さまの代わりに、沈家の彩景さまが若奥さまになったら、私たちはきっと今よりもっと辛い目に遭うことになります。どうか一刻も早く、若奥さまを見つけて差し上げて下さい。
彼女たちは心から香花の無事を案じているようだった。そのことからも、わずかな間に、香花が使用人たちの心をしっかりと掴んでいるのが判った。
香花らしいなと思いながらも、光王の心は逸った。このまま香花が見つからなければ、どうなるのか。彼らしくもなく、想像は悪い方へとばかり向かう。
味など少しも感じられない朝飯を漸く終え、庭に出てきた時、ふいに背後から呼び止められた。
「旦那さま」
が、香花のことで頭がいっぱいの彼には届かない。
「旦那さま」
何度目かにやっと気付き、振り向くと、彩景が微笑んで立っていた。単なる八つ当たりかもしれないが、こんなときには、彩景の笑顔が妙に癇に障る。