☆☆連載☆☆韓流時代小説 漢陽の春~月下に花はひらく
第6話では、美貌の義賊とお転婆美少女との、すったもんだ恋物語もいよいよ完結!!6話
☆これまでのお話☆
香花(ヒャンファ)は14歳。
早くに母を失い、下級官吏だったた優しい父と二人暮らしであったが、その父も病気で失った。
かつては名門として栄えたキム家であったが、今は没落の一途を辿るどろこか、香花に婿が見つからなければ、断絶になってしまう。
香花は没落した実家を建て直すため、高官の屋敷に奉公に出ることになった。 上流貴族の子どもの家庭教師として住み込みで働くことになったのだ。
だが、やがて、その屋敷の主人に惹かれ、恋に落ちる。。。
しかし、相手は愛妻を失い、いまだに忘れられず、二人も子どものいる男であった。
やがて、その男が怖ろしい国を揺るがす陰謀に荷担していることを知る香花。 それでもなお男を信じようとする彼女の前に、光王(カンワン)と名乗る美貌の義賊が現れる―。
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―実は、実際に蒼い蝶を見た人がいるらしいわよ。
―えっ、誰、誰なの。
―ほら、去年までいた人、梅(メ)香(ヒヤン)とかいったでしょ。あの娘(こ)が見たらしいわよ。
―ああ、旦那さまの特別のお計らいで、婚礼を挙げたばかりの下男と身分を引き上げて貰って出ていった人ね。何でも、旦那さまおん自ら二人の前で奴婢証文を焼いておしまいになったそうよ。私はあまり話したことはないけれど、運の良い娘よね。
―あら、うちの旦那さまは情け深い方だから、私たちだって、いつかは奴婢から身分を引き上げて貰えるかもしれないわよ。
―それはともかく、その梅香が夜中に、結婚した男と待ち合わせしてたんですって。まだ恋人時代の話よ。でも、生憎、その夜は急に旦那さまがお出かけになって、下男もお伴として付いていかなければならなくなったらしいの。で、梅香はずっと待ちぼうけを井戸端で食らっていたら―。
―出たのね?
―そうらしいわ。すすり泣きが井戸の外から聞こえてきて、見たこともないような綺麗な蒼い蝶がひらひらと飛んできたんですって。そうしたら、ボーッと蒼白い人影が井戸の真上に浮かび上がってきて―。
―後から思い出したら、その日が満月だったって。
キャーとかしましい悲鳴を上げている彼女たちの話を傍で聞きながら、香花は繕い物をする手を忙しく動かしていた。
真悦が自らの屋敷の奴婢の奴婢証文を焼き、自由にしてやった―というのは愕きではあった。が、特権階級の中でもとりわけ上級クラスの真悦であっても、そのようなことをするのは、やはり光王の父ならではなのかもしれない。
光王もまた身分差のない社会を理想としている。真悦が身分制度に否定的な考えを抱いているのかどうかまでは知らないけれど、真悦の人間性の底に流れるものを光王は受け継いだのだろう。
そのことはさておき、その、いかにもありふれた怪談話を何故、今になって思い出すのか。香花は、我ながら面妖に思った。
その時、ふいに蒼い影が眼の前をよぎった―ような気がした。
でも、おかしいわ。蒼い蝶が飛ぶのも泣き声が聞こえてくるのも満月の夜のはずなのに。
心のどこかで思う傍ら、香花は見惚れたように蝶をうっとりと眺める。
繊細な模様が描かれた美しい羽根が陽光に透けるようだ。蝶がひらひらと優雅に羽根を動かす度、きらきらと舞い落ちる粉が金色にきらめく。
蒼い蝶は香花の前をしばらく漂っていたかと思うと、ふいに井戸の中に吸い込まれるように入り込み、姿を消した。
「あっ、待って」
香花は小さな叫び声を上げ、慌てて蝶を追いかけるように中を覗き込む。
井戸には満々と水が湛えられており、水面には自分の顔がはっきりと、あたかも鏡に映し出したかのように映じていた。
彼女は水に映った自分の影に魅入られたように眺め入った。蒼い不思議な蝶はどこに消えたものか、影も形も見えない。
―おいで、ここにおいで。
ふいに誰かが自分を呼ぶ声が聞こえてきて、香花は眼を瞠った。
慌てて周囲を見回す。しかし、見渡す範囲に人影はなく、ただ冬珊瑚の実が冬の弱々しい光に照らされているだけだ。
香花は常人に比べると、聴覚がとても良い。一瞬、誰かが自分を呼んだのかと思ったのだけれど、どうも違うようだ。
―おいで、こちらにいらっしゃいな。
また、誰かが呼んでいる。
香花はもう一度、周囲をゆっくりと見回し、更に水面を覗き込んだ。
声はどうやら水底(みなそこ)から響いてくるようだ。
―ねえ、あなたは何をそんなに苦しんでいるの? 悩んでなんかいないで、ここに来れば良いのに。私と一緒に逝きましょう。苦しみも何もない場所へ私があなたを連れていってあげる。
香花はハッと息を呑んだ。
声が聞こえた次の瞬間、水面に全く見知らぬ娘の顔が浮かび上がったのだ。
面長でほっそりとした顔立ちはどこか淋しげだが、色白でなかなか整っている。かなりの美人だ。見たところ、まだ若い娘のように見える。
―逝くって、一体、どこに逝くというの?
問いかけてみても、娘は応えず、ただ薄く笑んでいるだけである。
と、それまで何もなかった空間に突然、蒼い蝶が出現した。蝶は水面すれすれを掠めるようにしきりに飛び回っている。
まるで香花を水底の世界に差し招くかのように、蝶は飛び続けた。
―さあ、一緒に逝きましょう。
水面に映った娘が優しい声音で誘う。
ふっと、その声についていっても良いかなという気になった。この屋敷に来てから、自分にこんな風に優しく話しかけてくれる人は誰もいない。歳の近い女中仲間とはそれなりに上手くやっているし、光王は相変わらず陰になり日向になり、香花を守ってくれる。
だが、家族となるはずの妙鈴には毎日、蔑みのこもった眼で見られ、辛く当たられるばかりだ。良いことなんて、ちっともなかった。
―あなたが私の友達になってくれるの?
―友達でも何でも良いわ。あなたが望むなら、何にでもなってあげる。
香花の問いかけに、水面の少女は妖艶さすら漂わせる笑みを浮かべる。それまでの儚げな雰囲気とは異なり、どこか凄みを滲ませた笑みだ。
「判ったわ。私もそこに行くから」
香花が応えたのと、背後から逞しい腕で抱き止められたのは、ほぼ同時のことだった。
「何をしているのだね」
聞き憶えのある深い声に、香花はいきなり現実に返った。
改めて振り向くと、良人の父真悦が強ばった表情で立っていた。
「あ、―私」
辛うじて声を出すと、真悦は香花の反応を窺うように、用心深く瞳を見つめてくる。
「自分がここで何をしようしていたか、そなたは全く憶えていないのか?」
香花は無言で頷いた。
真悦は深い吐息を洩らし、香花の手を引くと、井戸端に座らせた。
「そなたはたった今、自ら井戸に飛び込もうとしていたのだぞ?」
「えっ、私が? まさか―」
香花は言いかけ、言葉を失った。
舅に呼び止められるまで、自分は何をしていた? 確か眼の前を蒼い蝶が飛んできて、追いかけているうちに井戸の中を覗き込んだ。
水面に映っているはずの影は最初は自分だったのに、いつしか見たこともない全くの別人になっていたのだ。その娘に一緒に行こうと誘われて―。
香花は軽い眩暈を憶え、片手で額を押さえた。
「とてもきれいな蝶を見たんです。この世のものとも思えない、幻のような蒼い蝶でした。その蝶が何だか呼んでいるような気がして、いいえ、違います、呼んでいたのは、蝶ではなく水底にいた誰かだわ」
「水底にいた誰か?」
真悦が露骨に眉を顰めた。
「この井戸に関しては、とかくの噂があることをそなたは知っているか?」
静かな声音で問いかけられ、香花は小さく頷いた。
「果たして、そのような事実が真にあったのかどうか、私も実のところ、知らないのだ。ただ、国王(チユサン)殿下(チヨナー)がお住まいの宮殿はもちろん、両班の屋敷には、そういった類の話は付きもののようなものだ。先祖にそのような鬼畜のごとき無体をした者がいるとは子孫としては考えたくない話だが、全くあり得ない話ともいえぬ」
以前も、この井戸周辺で蒼い蝶を見たという娘がいたのだ。
真悦が香花に言うともなしに呟く。
「その女中はどうやら、末を言い交わした男に棄てられたらしい。蒼い蝶を見た満月の夜からきっかり三日後、自らこの井戸に飛び込んで果てた」
儂がまだ子どもの頃の話、父の代の話だ。
真悦の声が一瞬、遠くなった。
また、軽い眩暈が香花を襲う。
ぞわり、と思わず背筋が粟立つ。
真悦は冗談でこのようなことを言う人ではない。―ということは、すべては事実なのだ。
恐らく、遠い昔、成家の当主に手籠めにされ、この井戸に身を投げた娘の話も、真悦の父の代になって、恋人に棄てられ世を儚んで同じ井戸に飛び込んだ娘のことも。
「おい、何をするッ?」
香花は引き止めようとする真悦の手をふりほどき、井戸へと走った。井桁に手をかけて覗き込むと、水面には当然のことに、香花自身の顔がくっきりと映っている。
香花の身体から一挙に力が抜け、彼女はまずおれるようにその場にへたり込んだ。
自分までもがまた、蝶にいざなわれ、黄泉路へと脚を踏み入れるところだったのかもしれない。恐らく―、蒼い蝶は、冥土への使者、成家の当主に辱められ、亡くなったという娘の魂ではないのか。
香花が虚ろな頭で考えに耽っていると、真悦の声が聞こえた。
「可哀想に、よほど心が弱っているのだろう。妙鈴や彩景のことが原因なのだろうね。彩景の実家は妙鈴の縁戚にも当たるゆえ、儂もあまり彩景を無下にも扱えないのだ。だが、いつまでもこのままの状態を続けるつもりはない。必ずや、そなたの悪いようにはせぬゆえ、今少し辛抱してくれぬか。光王はそなたを妻として求めている。儂もまた成家の嫁はそなたしかおらぬと思うているのだから」
そのときだった。
香花は猛烈な吐き気を感じて、胸許を押さえた。これまで経験したことのない嘔吐感を憶え、香花は混乱した。胸を押さえたままの格好で地面に膝をつき、打ち伏して烈しくえづいた。
「香花、香花?」
いつもは沈着な真悦の声に狼狽が混じっている。
「いかがしたのだ」
真悦は香花の肩に手をかけ、下から覗き込んだ。
「わ、私」
香花は嫌々をするように首を振った。
そのあまりの取り乱し様に、真悦も感じるところがあったのか、真摯な声で問うてくる。
「香花、本来ならば、このような問いは良人である光王がするべきものであろうが―、もしや、そなたは懐妊しているのではないのか?」
刻々と重さを増してゆくような空気の中、香花は少しの逡巡を見せ、頷いた。