☆☆連載☆☆韓流時代小説 燕の歌~Swallow Song~月下に花はひらく
第2話
朝鮮王朝時代、中国民謡「燕の歌」にまつわる哀しい物語があったー。
光王と都を逃れた香花は新しく暮らし始めた小さな町で、貴族の青年と出会う。その青年は、どこか亡き初恋の男明善に似ていて。。香花の心が他の男に向きは始めたことに気づき、光王は面白くないが?
☆これまでのお話☆
香花(ヒャンファ)は14歳。
早くに母を失い、下級官吏だったた優しい父と二人暮らしであったが、その父も病気で失った。
かつては名門として栄えたキム家であったが、今は没落の一途を辿るどろこか、香花に婿が見つからなければ、断絶になってしまう。
香花は没落した実家を建て直すため、高官の屋敷に奉公に出ることになった。 上流貴族の子どもの家庭教師として住み込みで働くことになったのだ。
だが、やがて、その屋敷の主人に惹かれ、恋に落ちる。。。
しかし、相手は愛妻を失い、いまだに忘れられず、二人も子どものいる男であった。
やがて、その男が怖ろしい国を揺るがす陰謀に荷担していることを知る香花。 それでもなお男を信じようとする彼女の前に、光王(カンワン)と名乗る美貌の義賊が現れる―。
***********************************************
香花も泣いていたことも忘れて、微笑んだ。
知勇は伴人らしい若い男を連れている。その男も身なりは良いから下僕というよりは、身分の高い使用人なのだろう。
香花の脳裡に思い当たる節があった。この男が娶ったばかりの妻を使道に奪われたという執事の息子ではないだろうか―。
歳格好から、ほぼ自分の推量が間違いないであろうことを香花は悟った。
若い男は無表情に知勇の乗った馬の手綱を持っている。その表情からは、妻を奪われ、殺された男の悲哀は一切感じられない。この時代、使用人とはそういうものなのだ。主人の意向には逆らえず、どれほどの無体を強いられても、甘んじて受け容れねばならない。
代々、使用人の家系に生まれた者は幼い頃から、そうやって自分の感情は殺して主人の希望を最優先するように躾けられて育つ。ゆえに、この若い男のように、苛酷な宿命(さだめ)を押しつけられても、けして表には出さないようになっているのだ。
知勇はひらりと馬から降りると、馬は伴人に預け、自分は一人で香花の方にやってきた。
「どこかにお出かけだったのですか」
香花が問うと、知勇は鷹揚に笑った。
「学問所まで出かけた帰りなんだ」
「若さまはいつもお勉強熱心なのですね」
香花の言葉に、知勇は面映ゆげな顔になる。
「他にすることもないからね。とりあえず父は私が学問をしていれば、機嫌が良い」
「お父上さまは、若さまにご期待をかけておいででしょう」
「さあ、どうだか」
知勇は曖昧な笑みを浮かべたが、ハッとした表情で香花を見た。袖から白い手巾を取り出したかと思うと、香花の眼尻に溜まった涙の雫をぬぐう。
「そなたは、いつも泣いている。あの夜も、やはり泣いていた」
〝あの夜〟というのが半月前のことだとはすぐに判った。あのときも確かに光王と喧嘩して家を飛び出し、気が付けば、隣町の知勇の屋敷まで来ていたのだ。
香花は無理に微笑みを作ると、小さく首を振った。
「私のことなど、どうかご心配なさらないで下さい。それよりも、若さま、この辺りに学問所がありましたか?」
香花が話題を変えたがっているのを察したのか、知勇はそれ以上、追及しようとはしなかった。
「そなたは、この先の村に?」
知勇の問いに、香花はコクリと頷いた。
「私の通う学問所は、そなたの住む村の更に隣の村にある。その村もここと変わらない小さな村だが、都からおいでになった高名な需学者が隠棲されていてね。この界隈の両班の子弟を集めて私塾のようなものを開いておいでなんだ。私は父の言いつけで三年前から通っている」
「大変ですね、そんなに遠くまで」
更に隣の村までとなれば、町からは馬で片道半刻、往復一刻は要する行程である。
春の陽ざしが地面でかすかに揺れている。
頭上の梅の樹の影が風が吹く度、細かく震えた。
「たいしたことはない」
知勇はやわらかく笑むと、真っすぐに降ってくる春の陽光に眼を細めた。
「学問をよくし、書物に親しみ、今はできるだけ知恵を身につけておきたい。先人の教えには現代にも実践すべきことがたくさんあるよ。知ることは何より生きる源の力となるからね。私はいずれ父上の跡を継ぐ身ゆえ、そういった知恵をできるだけ多く習得し、良き役人になりたいと思っている」
「ご立派ですね。若さま」
直截に褒められ、知勇は頬をうっすらと上気させた。
「そなたも学問をよくしているようだが」
「いいえ、私など、若さまの脚許にも寄れません。それに、私は女の身ですから」
香花がうつむくと、知勇は真顔になった。
「嘘をついても、私の眼はごまかせないよ。二人だけで梅を愛でた夜、香花は私が即興で作った詩の題名を何にすれば良いかと訊ねた時、即答した。あのような打てば響く応答は、おいそれとできるものではない。あの鮮やかな返答に、私は、そなたがかなりの教養を備えた女人だと知った」
「お恥ずかしいです」
香花が恥じらうように言うと、知勇はますます真摯な眼を向けてくる。
「今の時代、女は学問をするべきできはないなどと申す人もいるが、私は全く正反対の意見なんだ」
その何気ないひと言に、香花は顔を上げる。
今、二人の真上にひろがる春の空のように澄んだ瞳、その底に揺れる哀しみと孤独。
やはり、このひとは明善を思い出させる。かつて、彼女が生命がけで愛した永遠の想い人に似ている。
「かつて、若さまと同じことを仰った方がおられました。女でも学問をすることは、けして無駄ではなく、むしろ生きる力となる、と」
香花は、明善の言葉を語った。
―学問をすることに男も女もない。学びたき者は皆、学ぶ権利を持っている。
明善が天主教に傾倒していたことには触れず、明善の聞かせてくれた彼の理想をできるだけ聞いたとおりの言葉そのままに伝えた。
知勇は香花の話に頷きながら、聞き入っていた。
「香花、その人は、一体どのような方なのだろうか? 差し支えなかったら、教えてくれ」
知勇の問いに、香花は微笑んだ。
「もう亡くなられました。かつては承旨として国王殿下にお仕えしていた方です。私は、その方のお宅でお子さまたちの家庭教師として暮らしていたのです。私をそのお屋敷に推薦してくれたのは叔母ですが、その叔母でさえ、私が学問に親しむのには反対でした。女が勉強をするのは、それほどに悪いことなのか思い悩んでいた私に、その方が今の言葉を下さったのです」
「香花は、もしや都からここに来たのか? そなたは両班家の息女だと察しているが、やはり、相応の事情があったのだろうな。でなければ、都で家庭教師を務めるほどの女性がこのような鄙びた地方都市まで流れてくるはずがない」
香花がふいに黙り込んだのを見て、知勇は慌てた。