扶郎花~裸足の花嫁~【後編】 著者 : 東めぐみ 発売日 : |
一年前から書き継いできた長編「裸足の花嫁」シリーズ、ついに完結。
シリーズ最終話となる本作では、チュソンとジアンの主人公カップルの愛のゆくえだけでなく、「大人の愛」、「家族の愛」、「親子の愛」を描き出すことを目標とした。単なる恋愛だけが「愛」ではない。男女の恋愛を超えた、その先にある「大きな愛」がテーマの物語にしてみたいという気持ちで書いた。
***********************(本文から抜粋)
チュソンの黒瞳を見つめながら、ひと息に言う。
「私は希を育てたいと考えています」
チュソンがまたそっぽを向く。
「話にならん。私は育てる気は無いと言っている」
ここで負けてはいけない。いや、多分、チュソン自身だって、一時の感情に任せて幼い弟を手放してしまえば、ずっとこの先、後悔することになるだろう。何故、あの時、手放してしまったのかと自分を責めることになる。
ジアンは愛する彼に、そうなって欲しくない。チュソンは幼い弟を平然と切り捨てられるほど酷薄ではないのだ。
いつもならチュソンが意固地になれば引き下がるけれど、今日だけは引き下がる気はなかった。
「私は希を手放すことは反対です」
チュソンが皮肉げに言う。
「ホホウ、では、そなたが育てるというのか? 子どもも持ったことのない、ましてや女ではない男のそなたが母になれると?」
ジアンはけしてチュソンから眼をそらさない。
「はい、育てます」
チュソンが自棄のように言った。
「無駄だ、そなたがどれだけ女らしかろうが、所詮は男だ。男は母親にはなれん」
ジアンは静謐な声で言った。
「旦那さまは、おかしなことを仰せですのね。いつもは男の私を女扱いなさる癖に、こんなときだけ男だと言われる。ご自分で矛盾しているとは思われませんか?」
チュソンが怒鳴った。
「いちいち小賢しい女子だ。理屈っぽい女は嫌われると知っているか?」
ジアンは心もち顎を上げた。
「旦那さまが何とおっしゃろうが、私は希を手放す気は毛頭ありません。父親であろうが母親であろうが、この際、そんな定義はどうでも良い。私は、希にとって、なれるものになります。私は希をどこの誰とも知れぬ赤の他人に託すことはしたくないのです」
チュソンは頑なに口を噤んでいる。ジアンの静かな声だけが空しく響いた。
「旦那さま、希は私たちの子ではありません。でも、実際に自分たちの子を持ったばかりの若い夫婦だって、皆同じなのではありませんか? 最初から父親、母親になれる人はどこにもいません。子どもが生まれ、実際に右往左往して育ててゆく中で、名前だけの親もまた本当の意味で親になる。私はそう考えています」
それでもチュソンは微動だにしない。相変わらず、床に映り込んだ格子模様を眺めているふりをしているだけだ。
「あまりに床を見つめすぎると、穴が空きますよ?」
ジアンはこれ見よがしに大きな溜息をついた。
「判りました。あくまでも旦那さまが希を養子に出すというなら、私は一人で希を育てます」
チュソンがギョッとしたように振り向いた。
「何だって?」
ややあって動転したのを隠すように、わざと不機嫌な声で言う。
「それは、どういう意味だ?」
ジアンは涼しい顔で続けた。
「恐らく旦那さまが理解なさっている通りです」
チュソンが真っ赤になって怒鳴った。
「私と離縁するというのかっ」
今度はジアンがそっぽを向く番だ。
「はい。旦那さまはご立派な男子ゆえ、これから先、私のような男嫁ではなく、れきとした正真正銘のおなごをお迎えになればよろしい。さすれば、山のようにたんとお子に恵まれましょう。ですが、私は生涯、我が子をこの腕に抱くことは叶いません。ならば、縁あって授かった希をただ一人の我が子として慈しみ育ててゆきたいと存じます」
立て板に水の勢いである。チュソンは気圧されたように妻の宣言を聞いていた。
一見亭主関白のようだが、こうなるともうジアンの独断場である。
チュソンはもう怒髪天をつくばかりだ。
「わっ、私と別れて、どうする気だ。そなたは淫乱な女ゆえ、男なしでは我慢できない身体だろう。希を慈しみ育てるなどと綺麗事を言っているが、本当は私に飽きて、新しい男を銜え込みたいだけなのではないか」
パッチーン、乾いた音がしじまを切り裂いた。ジアンは小刻みに身体を震わせながら、涙ぐんでチュソンを見つめていた。
「良い加減にして下さい」
立ち上がり、涙目でチュソンを睨みつける。
「ナ・チュソン、あなたは自分が何を言っているのか判っているのか?」
一方、結婚以来、初めて妻にぶたれたチュソンは茫然と妻を見上げている。
ジアンは涙ながらに言った。
「私は確かに生まれながらに女として生きてきた。だが、単に女のように振る舞うだけなのと、本物の女になりきるのとは訳が違う。あなたと生きると決めた時、私は二度と男には戻らないと覚悟を決めた。あなたの妻としての生涯をまっとうすると決めたんだ。私がそこまでの覚悟をしたのは、あなたを心から愛しているし、好きだからだよ。あなたのためなら、女として生涯をまっとうするのも悪くはないと思えた。良いか、男が女になりきるのは、中途半端な気持ちじゃできないんだ。なのに、あなたは私の気持ちも知らず、勝手に知ったようなことを言う」
ジアンは言うだけ言うと、泣きながら納戸に駆け込んでピシャリと扉を閉めた。
一人残されたチュソンは惚けたように座り込んでいた。