連載204回 韓流時代小説 罠wana*秘された王子と麗しの姫
君に、出逢えた奇跡。俺は、この愛を貫いてみせる~
第二部 第二話「落下賦」
☆私が力の限り、世子さまをお守り致します!「裸足の花嫁」シリーズ第四話・王宮編。
ー「陽宗反正」。漢陽で起きた凄惨かつ痛ましい政変で、ジアンの父王や弟である世子は廃され、暗殺されてしまう。更に、外戚として専横を極めていた羅氏はことごとく粛正され、チュソンの祖父や両親は惨殺された。
奇しくも、前王、羅氏、それぞれの血を引く最後の生き残りとなったチュソンとジアンだったが。ー
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かなりの早足で駆けるように急いだため、水刺間の前まで来たときは呼吸が上がっていた。
ーお願い、どうか間に合って。
祈るような想いで小走りに駆けてきた時、ハン女官が小卓を腕に抱えて出てくるのが見えた。思わずホウと息が洩れるが、問題はこれからだ。
ジアンは何食わぬ顔でハン女官とすれ違った。普通ならジアンが東宮殿の女官だと知れれば、ハン女官も何事かと警戒しただろう。が、ハン女官は心ここにあらずといった体で御膳を抱えたまま、通り過ぎていった。
やはり、一国の世子暗殺と大罪に手を染めることで心に余裕がないのだ。ジアンは改めて仁嬪の卑劣さに憤りを感じる。
世子暗殺に巻き込まれた時点で、ハン女官の命運は尽きた。失敗してもいずれ秘密の漏洩を怖れた仁嬪に消されるだろうし、成功すればしたで極刑だ。
仁嬪は自らは一切手を汚さず、ハン女官一人に罪を着せてシラを切り通すつもりだろう。
ジアンは極力気配と足音を消し、ハン女官の後をついていった。東宮殿まで道中には幾つもの殿舎が立ち並んでいる。彼女は殿舎と殿舎の間に入り込んだ。
何をするつもりかは明白だ。ジアンは殿舎の角に回り込み、顔だけ覗かせて様子を窺う。
果たして、ハン女官は小卓を一旦、地面に置いた。小卓の上には色合いも鮮やかな牡丹色の敷物が駆けられている。彼女は敷物を取り、袖から取り出した白い薬包を開いた。
誰も見ていないのは明らかなのに、しきりに周囲を気にしているようだ。とうとうハン女官は薬包を傾け、毒薬を膳の物に入れた。ここは絶対に間違ってはならないところなので、注意深く見ておく。
ハン女官が毒薬を入れたのは、羹だった。出しと醤油で味付けたしたスープの中に蟹と卵をとじたものが浮かんでいる。世子の好物の一つだ。
見たところ、毒薬は一見すると、普通の粒子の細かい白い粉薬と変わらないようだ。あの分では溶け残ることなく、綺麗に跡形はなくなっただろう。
あの娘は一体、自分がどれだけの大罪に荷担しているかの自覚はあるのだろうか。
ハン女官は風呂敷を元通り御膳に掛けると、何食わぬ顔でまた運び始めた。ジアンは慌てて自分もまた立ち並ぶ殿舎と殿舎の間に飛び込むのを忘れない。
ハン女官は誰一人、毒を入れる現場を見ていないと固く信じ込んでいる。しかしながら、ジアンは、しっかりと見ていた。
ハン女官の後ろ姿が見えなくなってから、ジアンもまた涼しい顔で後に続いた。凶行を止めさせるためには、急がなければならない。ジアンは、ハン女官に気取られない程度に遅れて東宮殿に帰り着いた。
この頃には、既に秋の残照は地平の彼方に沈み、宵闇が宮城を包み込もうとしていた。気の早い星たちがまたたき始めている。秋の虫の声が降るように聞こえていた。
白んだ細い月が頼りなげに紫紺の空を飾っている。
戻るなり、キョンシムが待ち構えていた。
「ジアン、どこに行っていたの! お勉強の途中に、あなたがいなくなったというので、世子さまが駄々をこねて、困っているのよ」
だが、ジアンは、それどころではなかった。ハン女官が世子の許に御膳を運ぶまでに、彼女を止めなければならない。
ジアンはキョンシムを無視し、チマの裾を絡げて走り出した。
キョンシムが眼を丸くする。
「ジアン! 一体、何があったというの」
キョンシムも小走りについてくるのに、ジアンは走りながら言った。
「水刺間に行っていたのよ。あなたが聞いた話からして、ハン女官が行動に出るとすれば早い段階だと思ったの」
「それで? 現場を捕まえたのね」
「ええ」
ジアンは頷いた。
「ハン女官が御膳に毒を入れたところをはっきりと見たわ」
キョンシムが息を呑んだ。
「そういうこと」
ジアンは言うなり、もうキョンシムには頓着せず、全速力で廊下を駆けた。世子の居室の前は、常に複数の女官内官が守っている。
ジアンは荒い息を吐きつつ問うた。
「ハン女官が世子さまの御膳を持ってきた?」
顔見知りの若い内官が言った。
「ハン女官なら今し方、お部屋に入ったところだ」
ジアンは礼もそこそこに、両開きの扉を開けて飛び込んだ。
運び込まれた御膳が世子の前に置かれている。風呂敷が取られ、気味尚宮が側に畏まっている。ジアンは急いで気味尚宮が誰か確認した。
ポン尚宮、仁嬪の手先と思しき者である。以前、ポン尚宮が急な腹痛で毒味役を休んだ時、代わりの気味尚宮が中毒死した事件は、まだ記憶に新しい。
ポン尚宮であれば、予め羹に毒を入れるのは知っているに相違ない。ジアンは全身に緊張を漲らせて、自分も室の片隅に控えた。念のため、いつでも駆けつけられるように世子にできるだけ近い場所に待機する。
室内には保母尚宮他、数人の女官が控えており、ハン女官の顔も見えた。
ポン尚宮は世子に恭しく一礼し、銀のスプーンで幾つかの料理を掬い口に入れた。やはり、予想したように、毒の入った羹には触れようともしない。
銀は毒に反応するため、貴人の使う箸や匙はすべて銀製である。むろん、銀器には何の変化も起こるはずはなかった。
毒味後、畏まって言上する。
「いずれの料理も大事ございません」
そのひと言を合図に、世子が勇んで匙を握った。蟹の卵とじは世子の好物だ。案の定、世子は真っ先に羹に手を伸ばす。
ー今だ!
ジアンは弾丸の速さで飛び出し、世子の手から匙を奪い取った。