韓流時代小説 月の姫【前編】~王を導く娘~
(第五話)
本作は、「復讐から始まる恋は哀しく」の姉妹編。
前作で淑媛ユン氏を一途に慕った幼い王子燕海君が見目麗しい美青年に成長して再登場します。
今回は、この燕海君が主人公です。
廃妃ユン氏の悲劇から14年後、新たな復讐劇の幕が上がるー。
哀しみの王宮に、再び血の嵐が吹き荒れるのか?
登場人物 崔明華(貞哲王后)
(恒娥)チェ・ミョンファ。またの名をハンア。町の観相師、18歳。あらゆる相談に乗る
が恋愛相談だけは大の苦手なので、断っている。理由は、まだ自分自身が恋をしたことも
なく、奥手だから。
燕海君 24歳の国王。後宮女官たちの憧れの的だが、既に16人もの妃がいる。
前王成祖の甥(異母妹の息子)。廃妃ユン氏(ユン・ソファ)を幼時から一途に慕い、大王大
妃(前作では大妃)を憎んでいる。臣下たちからは「女好きの馬鹿王」とひそかに呼ばれる。
**********************************************************************************
☆本作には観相が登場しますが、すべてはフィクションであり、観相学とは関係のないものです。本当の観相学とはすべて無関係ですので、ご理解お願いします。
亡くなる直前の王は、かなり精神を病んでいたそうだ。狂気に囚われた人が前後の見境なく自傷行為に及ぶことはままある。今となっては成祖が何を考えていたかを知る人は誰もおるまい。
大王大妃の罪は罪としても、彼女もまた十分すぎるほど報いを与えられたように思えてならない。
「そなたの今日の涙、忘れぬぞ。誰にも語れぬ我が罪を思いもよらず打ち明けたというに、そなたは我を誹るわけでもなく嫌悪の眼で見るわけでもなく、泣いた。私には、その涙が尊く、ありがたいものに思えてならぬ」
大王大妃の眼にもまた光るものが見えたのは、錯覚であったろうか。
大王大妃殿を辞する際、沈尚宮から与えられたのは小さな螺鈿の宝石箱であった。蓋を開くと、小粒の紅珊瑚が連なった二重の首飾りが入っている。恐らく、値が付けられないほどの品に相違なかった。
「大王大妃さまよりの下され物だ」
明華はありがたく褒美を受け取って、王宮を辞去した。沈尚宮がまた正門まで送ってくれ、そこからは徒歩で下町まで戻る。
予想外に長居をしたらしく、昼過ぎに到着したはずなのに、外に出たときにはもう夕方近くなっていた。
蜜色の夕陽が暖かな色で殿舎と殿舎の間の通路を照らしている。後宮を出るまでは女官たちの集団に、そこから先は連れだった官吏にすれ違う。
と、向こうに大集団が見えた。緋色の天蓋を掲げた内官が先導している。国王が宮殿内を異動しているのだと遠目にも判った。
知らず身が強ばる。明華は咄嗟に顔を伏せ、深々と腰を折った。傍らの沈尚宮も会釈をしている。
顔さえ上げなければ、国王と眼が合うはずがない。第一、ヨンは二年も経ったというのに、いきなり宮殿に自分が現れるだなどと考えもしないだろう。
大丈夫、上手くゆく。国王を先頭とした集団はゆっくり近づいてくる。集団が近づくにつれ、明華の鼓動は速くなった。
果たして、大勢のお付きを従えた王は、明華と尚宮の前を通り過ぎた。むろん、明華は微動だにせず、顔は深く伏せた体勢である。
「顔を上げても良いぞ」
気がつげは、沈尚宮が何か言っている。明華は慌てて顔を上げた。
尚宮が不審げに見ている。
「殿下はもうおられぬぞ」
「まさか国王殿下にお逢いするとは思わず、あまりに畏れ多いことで我を忘れてしまいました」
明華は無難な言い訳をした。腋にじっとりと嫌な汗をかいている。
ここまで来ればもうすぐに正門だ。明華を送り届けた沈尚宮はまた踵を返して去っていった。
明華もまた正門前の大通りをゆきかう人波に紛れ、貧民街の我が家へと向かった。
同じ頃、国王燕海君は大王大妃殿に向かっていた。大王大妃から折り入って話があると呼び出されたのだ。
どうせまた、山のような令嬢の身上書と姿絵を眼前に積み上げられるのが関の山だ。できることなら行きたくはないけれど、相手は王室の最長老にして内命婦の長、更に義理の祖母と来ている。国王とはいえ、無視するわけにもゆかない。
王宮内は広い。当然ながら宮殿内を移動すれば、あちこちで官吏や女官に出くわすのはいつものことである。彼らは国王を認めると脇により、丁重に頭を下げる。
大殿を出て、後宮に差し掛かろうとするときだった。年配の尚宮に連れられた、うら若い娘がチラリと視界に入った。
あれは確か、大王大妃殿にいる沈尚宮ではないか。沈尚宮は大王大妃の懐刀だ。その尚宮と一緒にいるのは明らかに女官ではなかった。
尚宮と並び、頭を地面に付きそうなほどに垂れているため、顔は見えなかった。
どこかで引っかかるものがあった。ほっそりとした、たおやかな立ち姿、小柄だが、引き締まるところは引き締まり、女性らしいやわらかな曲線を描いている、しなやかな肢体。
明華と別れてからというもの、相変わらず、女絶ちが続いている。ーというより、彼自身が明華以外の女には欲情できなくなったというのが現実だ。
かつては稀代の女好きの暗君と異名を取っていた彼は、一日として女っ気なしでは過ごさなかった。元々、女人は嫌いではない。好き者というほどではなくても、人並みの精力はあると自認はしている。
なのに、今は、どんなに美しい女官を見ても、豊満な女性を見ても、まったくその気にならないというのだから、我ながら笑える。
そんな自分が久々に女に眼が引きつけられた。顔は見えなかったが、娘盛りらしい豊かな身体は、国王の眼に止まるには十分だった。
けれど、あの娘、どこかで見たような気がする。彼はしきりに記憶を手繰り寄せようとした。突如として、想い出の海から胸苦しいほどの懐かしさと共にぽっかりと浮かび上がったのは、一人の少女だった。
腕に抱いたときのやわらかな感触、出逢ったときはまだ咲き始めた堅いつぼみだったのが、一年の中に次第に肉付きが豊かになり、少しずつ成熟していった身体、女性としての成長は衣服を通しての感触でも十分に手応えがあった。
「ーっ」
国王は思わず声を上げそうになり、たった今すれ違ったばかりの二人連れを振り返った。考え事をしながら歩いていたため、あの二人連れがいた場所から随分と遠ざかっている。振り返っても、彼女たちが見えるはずもない。
ーあれは明華だ!
顔も見ずに身体つきだけで想い人だと判るのは、流石に夜ごと違う女と浮き名を流していたからか。女体を知り尽くしたといえば、いかにも救いがたい遊び人のようだから、自認したくはない。自分としては、惚れた女ゆえの勘だと信じたいところだけれど、この際、そんなことはどうでも良い。
いきなり駆け出した王に面くらい、お付き集団は騒然となった。背後に控えていたヨ内官は愕然とし、慌てて王の後を追いかける。
「殿下、いかがなさいましたか」
しかし、燕海君は信頼する内官長の声すら聞こえないようだ。ひたすら脇目もふらずに走ってゆく。
しばらく走ったところで、王は荒い呼吸を吐きながら立ち止まった。
漸く追いついたヨ内官の息が乱れていないのは流石だ。常日頃、国王を守るために鍛錬を欠かさないだけはある。