韓流時代小説 復讐から始まる恋は哀しく
~謎めいた王と憂いの妃~【後編】
☆ 最初から最後まで、私には復讐しかなかった。あなたに出会うまではー「廃妃ユン氏」と呼ばれた少女の生涯☆
ー運命に導かれるようにして出逢った二人。
二人は互いの身分を知らずに、烈しい恋に落ちる。
ソファの運命を激変させた一夜ー、そのために彼女はすべてを失った。優しい両親、可愛い弟。
その夜、国王の唯一の忠臣といわれるユン・ソユンの屋敷に義禁府の兵が押し入り、ソユンとその妻、更には使用人すべてが問答無用で誅殺された。
後にソファが知った父の罪は「大逆罪」。謀反を企んだ罪により、父は王命で生命を奪われたのだ。
そのときから、ソファの復讐が始まった。
***************************************************************
その三日後、大妃殿の居室は水を打ったような静けさに包まれていた。数人控えている女官たちは皆、戦々恐々としており、室内は針で突けば割れそうな緊迫感が張り詰めている。
大妃は目下、爪の手入れの時間であった。
「仕上がりましてございます」
今日の担当は手慣れたベテランである。報告を受け、大妃は淡い紅色に染まった両手の指先をこれ見よがしに持ち上げた。しげしげと眺め回している間中、待機した女官たちは顔を伏せて縮こまっている。
大妃が満足げに頷いた。
「良かろう」
途端に、室内の緊張が解け、女官たちが一様に安堵の表情を浮かべる。その時、扉外から遠慮がちに声がかかった。
「大妃さま、燕海君さまがお越しです」
大妃の柳眉がピクリと動いた。
「燕海君? はて、呼んだ憶えはないが」
咄嗟に女官たちが顔を見合わせた。
「それでは私どもは、これにて失礼させて頂きます」
そそくさと爪染めの道具一式を片付け、逃げるように退室していった。残されたのは、常に大妃に付いている尚宮だけである。
「どうしても大妃さまにお逢いして、お願いしたいことがあると仰せです」
「面倒臭い子どもだ」
大妃は唾棄するように言い、顎をしゃくる。
「通せ」
ほどなく扉が開き、涼しげな目鼻立ちの少年が入ってきた。燕海君である。大妃の孫として生後まもなく引き取られ、養育されている。彼の母は亡きソジン世子の庶出の王女だ。ゆえに、血の繋がりはないが、確かに大妃の孫ではあるのだけれど、この幼い王子が何のために引き取られたかは、皆が知っている。
病弱で暗愚だという現国王に何かあったときの〝控え〟である。息子の跡継ぎとして引き取ったものの、大妃は燕海君を世子に立てるわけでもなかった。成祖はまだ二十七歳と若い。虚弱とはいえ、これからまだ御子が望めないというわけでもなく、燕海君を世子にした後で成祖に王子誕生となればまた厄介だ。
そのため、大妃が世子冊封を急がないのだとは、これも周知のことである。
燕海君は入室するや、文机の向こうの大妃に駆け寄った。
「お祖母(ばあ)さま」
飛びつかんばかりの剣幕に、流石の大妃も気圧されたようだ。露骨に顔をしかめているが、子どもに通用するはずもない。
「何ですか、燕海君」
とりあえず、〝優しい祖母〟の仮面を被ったがー。燕海君は文机にかぶりつくようにして言った。
「母上さまを助けて差し上げて下さい」
「母上?」
大妃は眉根を寄せ、傍らの信頼する老尚宮を見るも、尚宮も首を傾げている。
大妃は相変わらず猫なで声で問うた。
「母上とは一体、誰のことなのです」
「淑媛さまのことです! お祖母さま」
燕海君が勢い込んで応える。今度は大妃も地が出たーというより、衝撃のあまり、猫を被るゆとりもなかったのだ。
「あの者は、そなたの母などではない!」
ドンっと拳を文机に打ち付けられ、燕海君は飛び上がった。
「どうして淑媛がそなたの母だという話になるのですか」
「それは」
燕海君はうなだれた。やがて、ガバと面を上げて大妃を必死の形相で見つめる。
「私は一度、淑媛さまとお逢いしたことがあるのです。とてもお美しい、優しい方でした。かすみ草がお好きだとお話しされていました」
「あの者が何の花を好きであろうが、私には関わりなきことだっ」
大妃はヒステリックに叫び、眼の前の王子を睨みつけた。燕海君はそれでも食い下がってくる。
「お願いです。ははうーいいえ、淑媛さまを助けてあげて下さい。皆が話しています。このまでは淑媛さまは処刑されてしまうと言っています」
「燕海君」
大妃が呼んだ。ゾッとするような、冷たい声だ。
「淑媛が罰を受けるのは、罰せられるだけの相応の理由があるからです。つまり、淑媛はそれだけの罪を犯したのです。また、淑媛は後宮の掟に則って裁かれます。後宮内の諸事、殊に女官の賞罰には、たとえ国王殿下であらせられたとしても口出しはできません」
燕海君は最早、声もなかった。
大妃の鬼のような剣幕に、ただただ怯えるばかりである。
大妃は震えている幼い王子に、決めつけるように言った。
「利用価値のないものは消す、そなたもよおく憶えておくが良い」
言葉もない燕海君に、大妃がぞんざいに手のひらを振った。出て行けという意思表示だ。
「話すことはそれだけですね、燕海君」
「はい、お祖母さま」
燕海君はうつむき、居室を出ていった。小さな後ろ姿が消えた後、大妃は苛々と爪を噛んだ。
「空恐ろしい女子(おなご)ではないか。主上だけでなく、このような幼子にまで色目を使い手なずけておるとは。やはり、早々にあの者は消さねばならぬ。禍の芽は早くに摘むに限る」
一方、大妃の居室から控えの間を通り、廊下に出てきた燕海君を保母尚宮が待っていた。燕海君は乳母の腕に飛び込み、泣きじゃくった。
「やはり駄目だった。お祖母さまは私の話を聞いても下さらなかった。それに、大変なお怒り様だった」
保母尚宮は王子を抱きしめ、泣き止むまで辛抱強くあやした。王子が落ち着くのを待ち、彼の手を引いて大妃殿から庭へと至る階を降りた。
燕海君は背後を振り返り、宏壮な大妃殿を眺めた。
「乳母、私は大妃さまが怖い」
保母尚宮が声を潜めた。
「滅多なことを仰せになってはいけません。大妃さまのお耳に入れば、大変ですよ」
「大妃さまは仰せであった」
ー淑媛が罰を受けるのは、罰せられるだけの相応の理由があるからです。
でも、彼には、あの綺麗で優しげな女性が死を与えられるほどの罪を犯すとは到底信じられなかった。
乳母にでさえ感じない慕わしさを、あの美しいひとには感じられのだ。初めて燕海君を世継ぎの王子ではなく、一人の子どもとして見てくれ善悪を教え心から諫めてくれた人だった。
子どもだからこそ、彼はあの美しい淑媛が澄んだ穢れなき心の持ち主だと勘で悟っていた。
「私も燕海君さまと同じように思います」
保母尚宮もまた淑媛ユン氏と親しく会話を交わしている。これまで手を焼いていた我が儘で粗暴な王子をたった一瞬で大人しくさせてしまった、希有な女性だ。淑媛と話して以来、王子は他の子と入れ替わったのかと思うほど、物解りの良い子になった。
嫌いだった学門にも進んで打ち込み、教師たちを驚かせ歓ばせている。元々聡明な質だったらしく、意欲的に学んでいた。
「ですが、王子さまのお気持ちは判りますれど、大妃さまに逆らってはなりません。大妃さまはご自分の気に入らぬ者は容赦なく排除されます。私が思いますに、恐らく今回は淑媛さまも何か大妃さまと衝突するようなことがおありだったのでしょう」
それで、大妃の目障りだから、あの優しい女(ひと)は消されるのか。王子は考え、涙に濡れた眼で保母尚宮を見上げた。
「乳母、後宮とは怖いところだな。いや、後宮が怖いのではなく、後宮に住まいする人が鬼神なのかもしれない」
だから、たまに淑媛のように心優しい人が後宮に迷い込めば、すぐに消されてしまうに違いない。
「私はもし国王になったとしても、女人は信用せぬし、後宮にも近づきたくない。鬼婆ばかりが住まう後宮は嫌いだ」
王子は呟くと、尚宮の手をギュッと握った。生後まもなく母と引き離された彼にとって、乳母は母も同然の唯一の味方だ。
尚宮が笑いを堪えきれないようだ。
「大妃さまはお年を召されていると言われるのを一番嫌われます。燕海君さまが〝婆〟などと言われたのを知れば、激怒されるでしょうね」
保母尚宮の言葉には、幼い王子はチラリと乳母を見ただけで応えなかった。