韓流時代小説 寵愛【承恩】~王女の結婚~母・貞慧王妃より大好きだった保母尚宮ーお願い、死なないで | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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韓流時代小説 寵愛【承恩】第三部

~向日葵の姫君ーThe Princess In Loveー(原題「王女の結婚」)

 

ヒロイン交代!第三部はホンスン王女が主役を務めます。

韓流時代小説「王宮の陰謀」第三部。

わずか16歳で亡くなったとされる(英宗と貞彗王后との間の第一子)紅順公主には秘密があった?

幼なじみの二人が幾多の障害を乗り越え、淡い初恋を育て実らせるまでの物語。

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    永訣の朝

 その朝、紅順は起床後、女官の運んできた水で顔を洗った。その後は、また女官の手によって艶(つや)かな黒髪を梳られる。まだ王女の世話に慣れない若い女官は、しょっちゅう紅順の髪を強く引っ張って、その度に彼女は悲鳴を上げるのを堪えねばならなかった。
 王族ーしかも現国王の王女の身体に傷をつければ、下手をすれば鞭打ちだけでは済まない。ゆえに、紅順はたとえどれほど髪を引っ張られても、できる限り苦痛の呻きを洩らさなかった。
 それにしても、と、思わずにはいられない。ーインチョンなら、こんな痛みなんて感じなくても済むのに。
 インチョンというのは、他ならぬ乳母の朴尚宮、朴仁貞であった。いつも洗面の後、紅順の髪を梳り結うのは乳母の役目であったのだ。
 洗面の他、着替えなどは配下の女官や他の尚宮にさせることはあっても、この髪を結うのだけは乳母はいつも自分で行っていた。物心ついた時分から、紅順はこの時間がいっとう好きだった。
 乳母は平たい蒔絵の箱を恭しく捧げ持ってくる。箱には眼にも美々しい髪飾りが並んでおり、乳母は毎朝、紅順にどれが良いかを決めさせてくれた。
 朴尚宮はいつも紅順の髪を蒔絵の櫛で丁寧に梳いては嬉しげに言ったものだった。
ー公主さまの御髪は黒檀のように艶やかで、こしがありますゆえ、丁寧に梳けばなおいっそう艶が出て光り輝きます。
 仕上げに紅順が選んだ髪飾りをつけ、朴尚宮は眼を細めて言った。
ー公主さまは中殿さまにお似ましで、ほんにお可愛らしくいらせられますゆえ、これから先、どれだけ美しうねびまさられますことやら。
 あたかも母親が愛娘を自慢するかのような口調で、乳母は愛おしげに紅順を見つめていた。
 そんな朴尚宮が季節の変わり目になると、しつこい咳に悩まされるようになったのはいつからだったのか。あまりにも幼すぎた自分は、大切な母とも慕うひとの不調に気づいてあげられなかった。
 去年の最後の月初め、乳母は病のために後宮を去った。紅順が生まれ落ちてすぐにずっと仕え続けてきた忠実な保母尚宮は、宮仕え十一年目に養い君のゆく末を気に掛けながら、療養のために辞任せざるを得なかった。
 乳母がいなくなって二ヶ月、既に紅順も十一歳になっていたこともあり、保母尚宮は新たに任命されず、代わりに側仕えのベテラン女官が王女専任として抜擢された。
 紅順が愉しみにしていた朝の日課も、乳母の辞職で必然的になくなった。もちろん、王女の髪は女官が結うのだが、日によって務めるのは専任の新たな尚宮であったり、若い女官であったりと様々だ。
 紅順も乳母以外の人であれば、誰がしようと同じことだ。
 その日の担当は紅順とさほど年の変わらない女官だった。まだ見習いから一人前になったばかりの女官で、緊張もあってか余計に手許が危なっかしい。力を入れすぎては紅順の髪を地肌ごと強く引っ張り、その度に紅順は我慢を強いられることになる。
 いつもは何とか辛抱するのだが、流石に今朝は試練に耐えるのにも限界が来た。
 真ん前に置かれた立て鏡台に、紅順の顔が映り込んでいる。自分の顔がまた思い切り引きつった。
「今日のところはもう良い。後は自分でする」
 紅順は努めて鷹揚に言い、若い女官を下がらせた。蒔絵細工の櫛は、乳母がいつも使っていたものだ。紅順は知らず、紅い櫛を指先で撫でていた。
ーインチョン、今頃、どうしているかしら。
 二ヶ月の間に、紅順は何度か乳母を見舞い、その度に痩せ細り、やつれてゆくのを見るのが哀しかった。見舞いの度に水刺間(スラッカン)で滋養のつくものを作らせ、内医院で結核に効くという高価な薬を処方させて持参しても、乳母は折角の料理の三分の一も食べられなかった。
 無意識の中に櫛で髪を梳かしていた最中、パキリと耳障りな音が聞こえた。ハッと我に返り手の内を見やると、愛用の櫛が真っ二つに割れていた。
「ーっ」
 紅順は息を呑み、無残に割れた櫛を見つめた。そのときだった、居室の扉の向こうから、年かさの女官の声が響いた。乳母と入れ替わりに王女付きになった柳尚宮である。
「公主さま、陳氏から火急の使者が参りました」
 そのひと言がすべての悪夢の始まりだった。

 四半刻後、紅順は祈るような気持ちで輿に揺られていた。陳家からの使者は、乳母の容態急変を伝えるものだった。櫛が割れたのは何らかの予兆だったのかもしれない。輿の中で乳母の無事をひたすら祈りながら、紅順は幾度も考えても詮方ないことを際限なく考えた。
 紅順が到着したその時、既に大好きな乳母は意識が朦朧とした状態だった。
 病室には乳母の良人である陳家の当主、更に二人の息子たち仁賢、ジュンスがいた。
 ジュンスとの再会は、実に三年ぶりだった。あの頃、紅順とさほど身の丈も変わらなかったジュンスはとうに四つ上の兄を追い越すほど成長していた。
 王女到着の知らせに、居室にいた三人が立ち上がり、頭を垂れた。
 紅順はまろぶように乳母の枕辺に走り寄った。
「インチョン、インチョン。どうして、こんなことに」
 泣くまいとしても、涙を堪えられない。生まれたときからずっと側にいて、この女(ひと)の懐に抱かれて、この女の乳を飲んで育ったのだ。中宮殿に住まう王妃より、ずっと側にいた乳母の方が紅順には〝母〟であった。
 紅順の向かいー床を挟んで医師が控えている。紅順が縋るような視線を向けると、中年の小柄な医師は黙って首を振った。
 もう、打つ手がない。医師はそう言っているのだ。
「私がもっと早く気づいていたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに」
 紅順は頬をつたい落ちる涙を拭おうともせず、乳母の細い手を取った。
「公主さまのお嫁にゆかれる日まで、何とか頑張ろうと思ったのですが、どうやら、そろそろお迎えが来ているようです」
「インチョン」
 紅順の温かな涙が乳母の手を濡らした。母王妃はどちらかといえば厳しく自分をしつけようとしたのに対し、乳母は常に大きく包み込むように愛情をくれた。
 勝ち気な紅順が王妃に対して口答えをして、王妃が鞭を持ち出す度に乳母が身を挺して紅順を庇ったのだ。
 王妃自身
ーこれでは、どちらが真の母か判らぬな。
 と、苦笑するほど、乳母は紅順に心からの愛情を注いだ。
「公主さま」
 苦しい呼吸の下から呼ばれ、紅順は身を乗り出し、乳母の顔を覗き込んだ。
「なあに?」
「僭越な物言いをお許し戴きますならば、公主さまは短気でいらせられるのが玉に瑕。さほど遠くない先、公主さまは降嫁され、王室を離れられる御身ゆえ、どうか嫁ぎ先では何事もご辛抱あそばされ、ご夫君や義理のご両親には素直に従われること、ゆめお忘れなきようー」
 紅順は泣きながら言った。
「私はお嫁にはゆかないわ。ずっとインチョンの側にいるんだから」
 乳母の顔がかすかに笑んだ。
「また、そのような我が儘をおっしゃる。おなごは嫁いで母となってこそ一人前、どうかお幸せにおなり下さいまし」
 乳母の枕辺に伏してすすり泣く紅順の髪をそっと撫でる手がある。紅順はそれが乳母の手であるのは判っていた。
「お泣きなさいますな。私の身体がたとえ現世(うつしよ)から消えても、心はずっと公主さまのお側でお見守りしております」
「不吉なことを言うものではない。インチョンはまだ若いのに、死ぬものか。死ぬはずがない」