セリョンは一人娘の紅順王女を連れて翠翠楼に里帰りし
た。
そこで出逢った18歳の妓生メヒャンが何故か酷く哀しい瞳をしているのが気になる。
ー何とかして、あの可哀想な妓の力になりたい。
王妃になっても相変わらずのセリョンのお節介の虫が動き出してー。
チョン・セリョン（鄭世鈴）
妓房（遊廓）の看板娘。まだ幼い頃からセリョンを水揚げさせて欲しいと願う客が殺到するほどの美少女。外見を裏切るお転婆娘。明るく、落ち込んでも立ち直りの早い憎めない性格。
英宗と貞慧王后との間の第一王子
陽誠(ヤンソン)大君
英宗と貞慧王后との間の第二王子
ホンスン公主（李紅順）
国王英宗と貞慧王后の間の第一王女
ムミョン（無名）
自らを「無名」（名無し）と名乗る謎の男。雪の降る冬の夜、深手を負っていた彼をセリョンが助ける陰のある美男なところから、翠翠楼の妓生（遊女）たちに絶大な人気を集める。隻眼ということになっているも、実は碧眼と黒目のふた色の瞳を持つ。
☆貞順大王大妃（シン・チェスン）
三代前の国王知宗の正室。王室の最長老であり、後宮の最高権力者。
どうやら深い口づけを仕掛けてきたのは、セリョンに話をさせたくないためもあったようだ。勘の良い彼のことだから、セリョンが何か自分の聞きたくない話をしようとしているのを薄々察したのだろう。
セリョンは小さく頷き、拘束が緩んだ隙に、彼の膝から慌てて滑り降りた。幾ら何でも、激しいキスをして彼の膝に乗ったこの体勢で側室の話を持ち出せるものではない。
「和容公主さまが今日、お見えになった件だけど」
「ー聞きたくない」
まるで我が儘な駄々っ子だ。ムミョンは素知らぬ顔であらぬ方を見ている。
「そういうわけにはゆかないのよ。和容公主さま直々に頼まれたんだもの」
しばらく空疎な沈黙が二人の間を漂った。少しく後、その重さに耐えかねたように、ムミョンが重い口を開いた。
「どうせ、あの女が来たのは側室云々の話だろう」
「勘が良いわね」
別に皮肉でも何でもなかったのだが、ムミョンはこれにもあからさまに顔をしかめた。
「月に一度は大殿まで来て、同じ話を蒸し返される俺の身にもなってみろよ。勘が良いどころか、話の内容を憶えたくらいだ」
会いたくない家庭教師から逃れようとしている子どものような科白に、セリョンは思わず笑みを零した。
「何がおかしい。俺は真剣に迷惑だと思っているんだぞ」
ムミョンは笑われて、機嫌は急降下である。
「同じ話といっても、毎回、側室候補の令嬢の顔触れは変わるんではないの」
「それがどうしたっ。俺はそんなのはどうでも良い」
ムミョンは、ほとんど自棄(やけ)で叫んでいる。セリョンは笑みを消し、真摯な瞳で彼を見た。
「ねえ、そろそろ、あなたも側室を持っても良い頃合いではないかしら」
「ー」
ムミョンは応えない。セリョンは続けた。
「今回、和容公主さまが持ってこられたのはこれなの」
セリョンは純白の夜着の袖から、封筒を取り出した。昼間、和容公主から託された三人の令嬢たちの生年月日だ。
「とにかく見てちょうだい」
セリョンは封筒から紙片を取り出し、彼に差し出した。ムミョンはいかにも不承不承といった様子で受け取るも、見ようともしないので、少し強い口調で言った。
「見て」
ムミョンが紙に視線を落とす。まるで苦い薬を無理に飲まされているかのような表情は、こんなときでなければ笑ってしまっただろう。
「これがどうかしたのか」
単調な言葉は、いかにも気が乗らなさそうだ。そんな彼を見て、嬉しいと思ってしまう自分はやはり王妃失格なのだろうか。
セリョンは切ない気持ちで、浮かれる自分の心を無理に抑えつけた。
「この中に関心を持った令嬢はいない？」
問いかけに対し、彼はハッと呆れたように言った。
「関心も何も、俺は彼女たちの人となりどころか、顔すら知らないんだぞ？ 一体全体どうやって関心を持てと？」
「和容公主さまのお眼鏡に適うくらいの娘だもの、きっとどの令嬢も美しさにかけては引けを取らないはずよ。後は生まれ年と生まれた日ね。あなたと一番相性の良いのは、吏曹参判の息女らしいわ」
ー万良くば、床を共にしたその夜に見事男子を懐妊することができる。
占い師はそのように予言したと、和容公主は言った。確かに霊力のある巫女の託宣は時として恐ろしいほど的中することはある。迷信は信じないけれど、公主が信奉する占い師の祖先は、かつての星宿庁の大巫女、つまり大行首だという。星宿庁は今は廃止となって久しいが、文字通り、国の公的機関であり、星を見て占いをし、その託宣を聞いて国の大事を決める。
国家行事の日取りなどは、星宿庁と昭格署が共同で日取りを決めるというやり方が昔は行われてきた。例えば国王と後宮の女たちが同衾する夜についても、いちいち占いの結果で吉日を決めるといった煩雑さである。
今は既に星宿庁・昭格署ともに存在しないけれど、国家的な行事の日取りを占って決める慣習は依然として宮中では続いている。
もっとも、現国王英宗は極めて現実的であり、流石に嘉礼などの婚礼行事は占いで吉日と定められた日に行ったものの、王妃と共寝する夜については一切そういった第三者の意見は差し挟ませなかった。
流石に、床を共にする云々までをこの場で彼に伝えることはできなかった。いや、もしかしたら敢えて伝えた方が良いのかもしれないが、昼日中ならともかく、深夜にしどけない姿でいるときに口にできるものではない。
「無理だ」
「ーえ？」
最初、ムミョンの声は聞き取れないほど小さなものだった。彼の顔を覗き込もうとしたセリョンに、ムミョンは怒鳴った。
「無理だと言っている！ そなた以外の女は欲しくない、抱く気にもならない」
あまりの彼の頑なさに、ついセリョンも言わずもがなのことを言う羽目になる。
「ね、そんな風に頑なにならないで、もう少し前向きに考えてみて。和容公主さまが信頼する祈祷師によれば、吏曹参判の令嬢は」
そこで言い淀み、眼を瞑ってひと息に言った。
「あなたが令嬢を寝所に招けば、最初の夜に王子を懐妊できる見込みがあると予言が出たらしいの」
「良い加減にしろ！」
ムミョンが叫ぶように言った。
「そなた、自分が何を口走っているか自覚はあるな？」
セリョンもキッとなった。
ー何よ、私がこんなにも苦しんでやっと覚悟を決めて話をしたというのに。
あまりにも理不尽だという想いが否めない。
「ええ、ちゃんと自覚はありますとも。私は中殿として当たり前のことをしているだけ。私が身籠もれないのなら、代わりに世子になるべき王子を生む側室を捜さなければならないでしょう」
「以前にも同じ話をしたことがあったな。そなたが俺に同じことを何度も言うなら、俺も何度でも同じ科白を返す。そなたは俺が他の女を抱いても平気なのか？」
もう夫婦の間で幾度、こんな会話が交わされてきたことか。セリョンが側室の話をする度に、ムミョンは怒り出し、結局、決着はつかないまま話は終わる。
セリョンだとて、こんな話をしたくてしているわけではない。だが、年嵩の王族女性までが今回セリョンの許に乗り込んできたからには、事の重大さは今までとは違う。これまでは和容公主は直接ムミョンの方に掛け合いにいっていたのに、今回に限ってセリョンに話を持ち込んだのは何も偶然ではない。
公主は、はっきりと告げているではないか。
ー中殿さまから国王殿下にお勧めするように。
そして、公主の言うとおり、正室が子が産めない場合、正室自身が良人に側室を薦めるのは至極道理に適ったことなのだ。
セリョンの眼に熱い滴が湧いた。
「私がこんな話をあなたにしたいと思う？ 結婚して十年も経つのに、私はまだ、あなたもこんなにも好き。好きな男が他の女の人を抱くのを見たいわけないでしょう。でもね、私の立場も少しは考えて。私がいつまでも懐妊できないことで、廷臣たちがどれだけ国の将来を案じているか、あなたも知らないわけはないわよね。正室に子ができなければ、正室自らが良人に側室を薦めるのは珍しいことではない、むしろ、本来のあるべき姿だわ。中殿として当然の務めを果たさないことで、とうとう和容公主さまも業を煮やして私のところにまで来たのよ」
ムミョンが乾いた声音で言った。
「懐妊できないとそなたは言うが、試してみたか？ セリョン、俺たちが床を共にしなくなって二ヶ月だぞ。しかも、その前だって、俺が誘っても、そなたは頭痛がするとか何とか理由をつけては逃げてきたではないか。数ヶ月に一度あるかないかの交わりで、子ができるはずがない。側室を薦めるのが務めだとふざけたことを言う前に、そなた自身が俺に抱かれる覚悟を決めたらどうなんだ」
セリョンの眼から大粒の涙が溢れた。
「ムミョン、私は子どもを生む道具ではないわ」
「そんなことは判っている」
彼の声には何ものも寄せ付けない響きがあった。セリョンはまるで自分の気持ちが彼に撥ね付けられたように思えた。
「紅順が生まれるまでも皆は一日も早い私の懐妊を望んだけれど、今はその比ではないわね。だけど、皆の気持ちも判ってはいるのよ。あなたも即位してもう十一年だもの。いまだに世子がいない状態は、どう考えても普通ではないわ」
「セリョン」
ムミョンの声音がわずかにやわらいだ。
「そなたの焦りは判るよ。さりながら、そなたは懐妊できないわけではない。既に二度も身籠もっている。また以前のように頻繁に床を共にするようになれば、すぐに身籠もるはずだ」
「判ってない！」
涙混じりの声に、ムミョンが眼を瞠る。セリョンは構わず続けた。
「周囲に急かされるような今の状態がいやなの。ただ世継ぎを儲けるためだけに床を共にしたくないの。それじゃ、あんまりよ。私は単に王子を生むためだけの女なの？」
「そんなことはない。俺はそなたを抱きたいとー」
「結局、それだけでしょう。世継ぎを儲けるのと単に欲求不満を解消するためだけ」