韓流時代小説 寵愛【承恩】~100日間の花嫁〜哀しい別離。最悪の結末に英宗と王妃は言葉もなくー | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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韓流時代小説 寵愛【承恩】
~100日間の花嫁~
 第二部  第三話 冬の足音 
 
前作「炎月」から6年が流れた。
国王英宗のただ一人の御子、紅順公主の母、殿としてときめくセリョン。
国王の寵愛を一身に集める中殿キム氏に周囲から世子誕生の期待がかかる。その重圧に耐えかねるセリョンだったが―。
ある日、「王妃の父」だと名乗る両班が現れた。
そんな中、英宗が溺愛する一粒種の王女が誘拐される。
―私はどうなっても良いの、あの子を無事に返して。
果たして、セリョンの涙の願いは届くのか?
陰謀渦巻く伏魔殿「王宮」で、新たな謀の幕が開く―。
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 身許がバレるのを恐れてか、王女の盛装ではなく両班の子女が着るような薄桃色のチマチョゴリを着せられている。
「母上さま(オバママ)」
 紅順が駆け出し、セリョンの腕に飛び込む。
「紅順、大丈夫? 何もされなかった? 怪我はない」
 矢継ぎ早に訊ね、抱きしめた紅順の髪に頬を押し当てた。大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。紅順も母の温かな腕の中で泣きじゃくった。ややあってお互いの興奮が治まってから、セリョンは紅順の身体のあちこちを確かめた。
 大丈夫、特に危害を加えられている風もないし、手足を縛られたりもしなかったようだ。
「母上さま、怖かった」
 訴えるのも無理はなく、灯火などは一切なく、灯りといえば廊下の壁に填った窓を通して、わずかに差し込む月明かりくらいのものだ。幼子にはさぞかし心細かったに違いない。
 ホッとしたのも束の間、薄闇の中、近づいてくる足音が聞こえた。
 セリョンは焦って振り返った。今ここで見つかっては、すべてが無駄どころか、事態はもっと悪くなる。思案する間もなく、セリョンが隣室へと続く扉を開けて飛び込んだのと、足音の主が入ってきたのはほぼ同時であった。
「王女さま、相変わらず強情を張っておいでですかな」
 入ってきたのは何とチャン・ソクその人であった。ソクは紅順の足下に置いてある盆を見て、これ見よがしに溜息をつく。
「また召し上がってはおられないのですね。まったく、この強情さは誰に似たのでしょうか、国王殿下か中殿さまか」
 呟き、虚ろな笑いを上げる。
「どちらにお似ましになっても、確かに意地っ張りではおられるでしょう」
 そこで、食事を運んできたはずの女中がいないことに気づいたらしい。細い眉をつりあげ、不審げに周囲を見回す。
「不用心なことだ。たとえ子どもとはいえ、大切な人質を放り出して戸締まりもせずにいなくなるとは」
 セリョンは隣室で息を殺していた。扉に耳を当て、ソクの一挙手一投足を注意深く監視していた。もしソクが紅順に少しでも手を出したりしようものなら、差し違えるのも覚悟で出てゆくつもりだ。袖には懐剣が潜んでいる。
「さあ、今日こそは返事を聞かせて貰いますぞ。お父上に手紙を書くのです。お祖父さまの言うことをきいて下さいと、たったそれだけで良いのですよ。さすれば、すぐに王宮にも帰して差し上げますし、いずれは王女さまを私の孫息子の嫁にもして差し上げましょう」
 何が〝おじいさま〟だ。祖父が可愛い孫を誘拐して、こんなところに閉じ込めて粗末な食事しか与えないなど、あるはずがない。ソクは紅順を出世の道具としてしか見ていないのだ。
「さあ、書くと言いなさい」
 ソクの声に次いで、紅順のか細い声が聞こえた。
「いや、母上さま、助けて」
 もしかしたら、ソクがあの子に詰め寄っているかのしもれない。
 と、ソクの愉快そうな笑声が上がった。
「幾ら助けを呼ぼうと無駄ですよ。よもや私があなたを攫ったとは誰も思いますまい。たとえ国王殿下でさえも、私を疑いはしない。あなたのご両親は今、遠い宮殿にいます、幾ら呼んだって助けにきてはくれません」
 言わせておけば、良い気になって。
 頭にカッと血が上り、セリョンは隣室の扉を開けていた。
「誰が宮殿にいるですって?」
 この国の王妃のいきなりの登場には、流石のソクも愕いたようだ。こんなときでなければ、天下の領議政が硬直しているのは見物であったに違いない。
 緊張が漲った室内にソクの笑い声が響き渡った。何がおかしいのか、涙目になっても笑っている。
 おかしい、この男、狂っている。権力欲にに取り憑かれてイカレてしまったのだろうか。
 ソクはまだ低い声で笑いながら言った。
「よもや中殿さまが私の屋敷にいらっしゃるとは、流石に考えもしませんでしたね。しかも、下女に扮装までなさっている。いやはやあなたにはとことん愕かされてばかりだ。妓生の娘がこの国の王妃になり上がっただけでもたいしたものなのに、臣下の屋敷に堂々と忍び入るとは」
 ソクの顔から笑みが消え、代わりに狡猾そうな表情が浮かんだ。
「丁度良いところにお越し戴きました。中殿さまをお迎えするなら、事前にお知らせ下されば、用意万端を整えてお待ちしていたのですがね。紅順王女さまだけでなく、あなたまで人質に取られては、国王殿下も私の言うなりにならざるを得ないでしょう」
 ソクが紅順を抱きしめたセリョンにじりっと近づいた時。
「そこまでだ」
 凛とした声音が緊迫に満ちたしじまを破った。ハッとしてソクが背後を振り返る。
 開いたままの入り口から、ムミョンが姿を見せた。
 これにはソクも開いた口がふさがらなかったようだ。ハッと呆れたように鼻を鳴らした。
「何ということでしょうね。この国の王が護衛もつけずに臣下の屋敷に単身乗り込んでこられるとは。中殿さまだけでなく、殿下までお越しとは、いや畏れ入りました」
 口調とは裏腹に、いっかな畏れ入っている風には見えない。
「だが、ご安堵下さい。私はまだ殿下と中殿さまのお生命を戴くつもりはありません。我が娘には一日も早く今度こそ王子を生んで戴かねばなりません。そのためには、お二方は私にとって必要なのです」
 ソクは言いながらも間合いを計っている。セリョンと王女を拘束して、王の機先を制そうとしているのだ。だが、ソクが動くより、ムミョンの方が早かった。彼は素早く妻子を引き寄せ、背後に隠し、更に抜いた長剣の切っ先をソクの喉元に突きつけた。
「―っ」
 ソクの顔色が蒼白になった。ムミョンは後ろ手にセリョンと紅順を庇いながらも、ソクに向けた刃を引こうとはしない。
「それで? 紅順を脅して、俺にそなたの言うなりになるように手紙を書かせるつもりだったのか? いずれ中殿に王子が生まれた暁には世子に立て、俺の息子にそなたの孫を娶せた上、俺にすみやかに退位せよと?」
 ソクは応えない。ムミョンは続けた。
「その頃には、俺も中殿もそなたにとっては無用の長物になっているだろうな」
 ソクが居直ったように言った。
「女王など冗談ではない。連綿と続いた王朝をあなたは根底から覆そうとしているのですぞ」
 ムミョンが笑った。
「この国が国号を朝鮮と名乗る昔には、女王が国を治めた時代も確かにあった。素晴らしい政治的手腕を持っていた女王もいたぞ」
「少なくとも、我らが太祖大王が建国して以来、女人が王になった例はござらん」
 ムミョンが嘲笑った。
「そなた、俺が本気で紅順を王女に立てるとでも思ったか?」
 ソクの血の気のない顔色が紅く染まった。
「殿下は私を謀られたのか」
「そなたを試すために申したのだ」
「卑怯ですぞ」
 ムミョンの長剣が更にソクの喉元近くギリギリまで迫った。
「それをそなたが言うか! 卑怯なのは、どちらだ。そなたは幼い王女を宮殿から攫い、このような場所に監禁した。それだけでも大逆罪に等しいのは判っておろう」
 ムミョンは自らを落ち着かせるかのように、小さく息を吐いた。 
「そなたが紅順を誘拐した理由も女王即位を阻止するためではなく、ただ何代にもわたってチャン氏一族が王の外戚として栄華を極めたかったからではないのか。今更、国を思う忠臣面をしても遅いぞ、貴様の腹の内なぞ、端から読めておるわ」
「私は中殿さまの父ですぞ」
 決め科白を出したつもりだろうが、かえって墓穴を掘ることになった。
「それがどうした? 確かに朕もそなたの立場を考慮して、今までのやりたい放題も見ぬふりをしてきた。されど、もう我慢の限界だ。幼い娘を攫い恐怖に晒した上、一国の王女の生命を取引の道具に使うとは許しがたい。そなたをこのままにしてはおけぬ」
 ソクが傲然と顎を逸らした。
「お好きになさるがよろしい。私も王女さまを連れ去り、ここまで来たからにはただで済むとは思うておりません」
「ましてや、そなたは領議政という重職にある身だ。この国の中枢を蝕み、朝廷を混乱に陥れようとした罪は重い」
 ムミョンが長剣を構えた。ソクがその場に端座する。
―彼は領議政をこの場で斬るつもりなの?
 普段の彼からは考えられない仕儀だ。けれど、今、ムミョンは激高して我を忘れている。ソクが王女だけでなくセリョンをも人質にしようとしたことが彼の最後の理性の糸を断ち切ってしまったのだ。思慮を失っていたとしても、不思議ではない。
「止めて」
 セリョンが声を震わせた。ムミョンが振り返る。セリョンは眼に涙を滲ませて懇願した。
「お願いよ、今ここでこの人を殺しても何の解決にもならないわ。生きて罪を償って貰わなければならないでしょう」
 セリョンはソクの方に向き直った。
「こんなことになって残念です、領相大監」
 心からの言葉だった。仮にも父と呼んだ人を断罪しなければならないとは想像もしなかった。
「そなたの血で剣を穢すつもりはない。中殿の申すとおり、国の法に則って裁きを受けよ」
 ムミョンが剣を納めた。 
「最早、私を父とは呼んで下さらないのですね」
 セリョンを見上げるソクの双眸は、状況に不似合いなほど静謐だった。その声に一抹の淋しさが混じっていると思ったのは、気のせいか。―と思いかけたときだった。
 ソクの口から鮮血が溢れた。
「しまった」
 ムミョンがソクに駆け寄ったが、時は遅かった。彼は口から血を溢れさせながら、その場に倒れた。
 様子を確かめ、ムミョンが首を振った。
「舌をかみ切ったようだ」
 セリョンはその場に跪き、ソクの頭を抱いた。
「何故なのですか?」
 何故、このような大それたことをしようとしたのですか、与えられた以上のものを望んだのですか―。
 あれほどの忠臣が道を見誤ったのが哀しかった。セリョンは自らのチョゴリの袖を引き裂き、ソクの口許の血をぬぐった。
「あなたはお優しい。判っておりましたよ、殿下があなただけを望まれたのは、何もあなたが色香で殿下を惑わしたわけではない、あなたの類稀なる美しい心をこそ殿下が愛でられているのだと」
「父上」
 呼べば、ソクの顔に淡い微笑が浮かんだ。
「あなたの後見を引き受けたときから、私は権力欲に魅せられてしまったのでしょう。結局、私は偽者の忠義心しか持たなかった。ゆえに、伏魔殿の魑魅魍魎に成り下がったのです」
 ソクの眼が急速に光を失った。
「―」
 セリョンは思わず眼を背け、嗚咽を堪えた。
 初めて養父となる人と対面したあの日、今日の哀しい別れが待っているとは考えもしなかった。
 セリョンは涙を流しながら、ソクの開いたままの瞼を降ろしてやった。ムミョンもまた何も言わず幼い王女を抱き、痛みを堪えるような顔でその場に立ち尽くしていた。
 夜は深く、救いようのない哀しみだけがその場を取り巻いていた。