韓流時代小説 寵愛【承恩】
～隻眼の王の華嫁は二度、恋をする～
第四話 夢うつつの蝶
「そう、今だけは、王と町娘ではなく、ただの男と女でいたい。せめて今だけは、ただのセリョンとムミョンでいられるこの大切な時間に浸りたい」
～遊廓の女将の娘が王様を好きになっても良いの？～
とある国王の御世、都漢陽では旅の一座が上演する仮面劇「王宮の陰謀」が大流行。
翠翠楼の一人娘、セリョンは念願叶って「王宮の陰謀」を見た帰り道、大怪我をして行き倒れていた美しい青年を助けるが－。
人物紹介
チョン・セリョン（鄭世鈴）－後の貞慧王后
妓房（遊廓）の看板娘。まだ幼い頃からセリョンを水揚げさせて欲しいと願う客が殺到するほどの美少女。外見を裏切るお転婆娘。明るく、落ち込んでも立ち直りの早い憎めない性格。
ムミョン（無名）－王世子（世弟）・後の国王英宗
自らを「無名」（名無し）と名乗る謎の男。雪の降る冬の夜、深手を負っていた彼をセリョンが助ける陰のある美男なところから、翠翠楼の妓生（遊女）たちに絶大な人気を集める。隻眼ということになっているも、実は碧眼と黒目のふた色の瞳を持つ。
☆貞順大王大妃（シン・チェスン）－韓流時代小説「後宮秘帖～逃げた花嫁と王執着愛」主人公。
三代前の国王知宗の正室。王室の最長老であり、後宮の最高権力
者。
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ジェヒの顔が更に近づいた。互いの唇が殆ど重なりそうな微妙な位置。彼が吐息だけで笑った。
「そなたは利口な娘だ。そなたさえその気になり、ずっとここで暮らせば、翠翠楼は永遠に安泰だと判っているな？」
「あなたは私をこんな場所に閉じ込めて、籠の鳥のように飼うつもりなの？」
ジェヒが声を上げて笑った。
「籠の鳥か、言い得て妙だな。それも良い、美しいそなたにはどんな衣装でも似合うが、何も身につけないのが一番美しい。俺はそなたのために色とりどりの花と宝石を選び、そなたの素肌を飾ろう。素肌に花と宝石だけを纏った姿で、そなたはこの鳥籠で俺のためにだけ愛らしく囀る」
「あなた、狂ってるわ」
恍惚りと呟くジェヒの口ぶりは、どこか壊れているかのようでもある。
―この男はおかしい。
根っからの狂人かどうかまでは判らないが、性的な嗜好に関してはどこか頭のねじが飛んでいるらしい。
ジェヒは笑いながら、事もなげに言った。
「男に理性を失わせ、狂わせるそなたが悪いのだ。観念せよ」
何を勝手なことを言っているのかと、余計に腹が立つ。とにかくジェヒが襲いかかってくるその瞬間を少しでも引き延ばさなければならない、その間に活路を開く。
どんなに絶望的な状況でも、探せば必ず道はある―というのが翠翠楼の女将の信条だった。セリョンは幼いときから母にその教えをたたき込まれた。
他愛ない言葉のやり取りをしながら、セリョンは必死に思考を巡らせた。ふいに、温かなものが唇に触れ、セリョンは叫んでいた。
「いやっ」
ジェヒに唇を奪われたのだ。逃げるのを考えるあまり、隙を作った自分の愚かさを呪う。
ジェヒの顔がまた近づく。
「ツ」
男が呻いて離れた。セリョンが唇を嚼んでやったのだ。普段は鷹揚な仮面を被った非道な男の化けの皮が剝がれた。
「この！」
ジェヒが拳を振り上げ、セリョンは眼を閉じた。―殴られる。
だが、その瞬間は訪れず、怖々と眼を開ければ、ジェヒの眼が爛々と輝いていた。
「唇を嚼みきるとは、山猫のような女だな。愛らしい外見のどこに、このような烈しさを秘めているのか。まあ、良い。いずれ俺の息子を生む女ならば、これくらい烈しい気性の方が望ましい。セリョン、俺はこれから身籠もるまでそなたを何度でも抱く。見事に息子を生んでくれれば、いずれは正夫人にもしてやろう」
セリョンの抵抗がどうやらジェヒの最も危ない部分を刺激してしまったらしい。間違いなく、この男には嗜虐趣味がある。
セリョンはゾッとした。ジェヒが無防備なセリョンの胸に手を伸ばした。夜着とは名ばかりの薄物を通して、身体の線が見えている。その様がたいそう卑猥だ。
ジェヒの双眸に妖しいほむらが燃えている。ジェヒの手が伸びてきて身体に触れられ、、セリョンの唇から思わず声が洩れた。
「ぁあっ」
あえかな声は自分でも悲鳴とは思えない。
続けざまに触れられ、またはしたない声が出る。
「あ、あっ」
ジェヒが極上の笑みを見せた。
「可愛いものだ、嫌だと拒みつつも、身体はきちんと反応を返している。やはり、そなたも女だな」
男が含み笑った。
「―いや」
とうとう、セリョンの瞳に涙が溢れた。ジェヒが笑った。
「泣くことはない。とても可愛いよ。俺がセリョンの可愛らしいここをたくさん触ってあげる度に、ここはこんな風になる。さぞ愛らしい声で啼くのだろうね、愉しみでならない」
ジェヒの顔が胸に近づいたのと、鋭い声が飛んだのはほぼ時を同じくしていた。
「そこまでだ」
言葉と共に、室になだれ込んできた者がいた。ふいの闖入者に、ジェヒの行為が止まった。
―助かった。
セリョンは安堵のあまり、意識が遠のきそうになるも、この者が味方かどうかはまだ判らない。今は気をしっかりと持たなくてはと自分を戒める。
ジェヒの前に鈍く光る刃が突きつけられている。次の一瞬、ジェヒの身体が後方に飛んだ。まるで跳躍するような軽やかな身のこなしに、セリョンは息を呑む。
それは乱入者も同じだったようだ。ハッとした気配がそちらから伝わってきた。ジェヒはセリョンの愕きを尻目に、室の片隅に置いてあった長剣を素早く取り上げた。
だが、相手も負けてはいない。ジェヒの動きに応ずるように剣を抜く音がした。
刹那、セリョンはジェヒに向かい剣を構えた男を見て声を上げそうになる。
―ムミョン。
蒼色のパジを纏ったムミョンが長剣を正眼に構えている。
「そなた、何者だ？」
ジェヒの問いに、ムミョンは一切応えない。
「なるほど、応える気はない、か。姿恰好から察するに、そなたもセリョンに血道を上げている男の一人だな。ここを突き止めたのは上出来と褒めてやるが、生きて出られると思うな、若造」
ジェヒが最初の一撃を繰り出した。ムミョンはすかさず手前で受け止め、難なくはじき返した。二人の男の間で攻防戦が際限なく繰り広げられる。
愕くべきことに、ジェヒはなかなかの剣の使い手であった。ムミョンが腕利きの武官と打ち合っても引けを取らない達人だとは知っている。しかし、金儲けしか能がないと思っていたジェヒがここまで剣を扱うとは考えてもみなかったのだ。
二人ともに凄まじいまでの気迫と卓越した剣技だ。何度目かの刃を合わせた体勢で、二人はじりじりと右に左にと動く。
「貴様、なかなかやるな」
初めてムミョンが口を開いた。
「金勘定しかできぬ商人と侮っていたのだろう。商売柄、生命を狙われることなぞザラだ。自分の身は他人任せではなく自分で守るというのが生憎と俺の信条でな」
ジェヒが不敵な笑みを見せた。
「度胸といい、剣の腕といい、ここでなぶり殺すには惜しい。俺にもそなたと同じ年頃の倅がいるが、病がちで気が弱い。どうだ、俺の下で働いてみないか？」
満更冗談でもない様子のジェヒの問いかけに、ムミョンは薄く笑った。
「凄腕と評判の大行首からお誘いを受けるとは光栄だ。さりながら、俺はか弱い女を力に任せて従えようとするようなやり方は好まぬ。生憎だが、断る」
言うや、ムミョンが渾身の力でジェヒの刃をはじき飛ばした。すかさず飛んだ刀を拾おうとするも、今度ばかりはジェヒが少し遅れを取った。
ジェヒの首筋にピタリと白銀の刃が当てられる。
「生命が惜しくば、女を諦めろ」
ムミョンが凄みのある声で囁く。セリョンはハラハラしながら、なりゆきを見守った。こんなに怒った彼を見るのは初めてだ。ジェヒの返答次第では、本当にこの場でジェヒを切り捨てかねない剣幕だ。
「断ったら？」
ジェヒが言うと、ムミョンは即座に言った。
「この場で貴様の息の根を止めてやる」
ハッと、ジェヒが鼻で嗤う。ムミョンは静かすぎる声で言った。
「俺が出任せでこんなことを言っていると思うか？」
ムミョンが刀を振り上げた。次の瞬間、セリョンの悲鳴が響いた。
「駄目、ムミョン」
殺してはいけない。そう言おうとしたのだ。
まるで芝居の一幕をゆっくりと見ているかのように、彼女の眼前でジェヒの髷が宙を飛んでいった。
流石に、大物の大行首の顔も蒼白になっている。ムミョンはひと太刀で、ジェヒの髷を切り落としてのけたのである。
ムミョンの静謐な声は、まるで氷の欠片を含んでいるかのようだ。
「良いか、俺は今、かつてないほど腹が立っている。もし貴様がセリョンを今後もしつこく追いかけ回すと言うならば、次は本当に殺す。どうだ、それでもセリョンを諦めないというか？」
息をするのもはばかられるほどの静寂の後、ふいに大笑いがしじまを破った。
セリョンは最初、ジェヒが恐怖のあまり錯乱したのかとさえ思った。
「若いのに、たいしたヤツだ。本気で俺の跡継ぎにしたいくらいだぞ」
ジェヒが言い終えた時、室の扉からセリョンもよく知る人物が入ってきた。内禁衛将、ムミョンの腹心だ。
「殿下」
武官のなりをした内禁衛将はムミョンに丁重に頭を下げた。
ジェヒはその呼びかけを聞き逃さなかったようで、愕きに改めてムミョンを見た。
「なるほど、若いのに度胸があるはずだ」
ジェヒは小さく首を振った。
「たいしたものだ、妓生の娘は国王殿下の御心さえ動かしたのか」
攫ってきた女を組み敷こうとしている最中に現れた貴公子。まさかその若者が国王だとはジェヒは思わなかっただろう。
ジェヒはすっかり毒気を抜かれたようで、内禁衛将に大人しく連行されていった。
二人が出ていった後、ムミョンが近づきセリョンはその逞しい腕に強く抱きしめられた。