韓流時代小説 寵愛【承恩】~隻眼の王の華嫁~私は王命で動く調査官。英宗の頼みで女官として後宮潜入 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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韓流時代小説 寵愛【承恩】

~隻眼の王の華嫁は二度、恋をする~

 

「そう、今だけは、王と町娘ではなく、ただの男と女でいたい。せめて今だけは、ただのセリョンとムミョンでいられるこの大切な時間に浸りたい」
~遊廓の女将の娘が王様を好きになっても良いの?~

とある国王の御世、都漢陽では旅の一座が上演する仮面劇「王宮の陰謀」が大流行。
翠翠楼の一人娘、セリョンは念願叶って「王宮の陰謀」を見た帰り道、大怪我をして行き倒れていた美しい青年を助けるが-。

人物紹介  
チョン・セリョン(鄭世鈴)-後の貞慧王后
妓房(遊廓)の看板娘。まだ幼い頃からセリョンを水揚げさせて欲しいと願う客が殺到するほどの美少女。外見を裏切るお転婆娘。明るく、落ち込んでも立ち直りの早い憎めない性格。 

ムミョン(無名)-王世子(世弟)・後の国王英宗
自らを「無名」(名無し)と名乗る謎の男。雪の降る冬の夜、深手を負っていた彼をセリョンが助ける陰のある美男なところから、翠翠楼の妓生(遊女)たちに絶大な人気を集める。隻眼ということになっているも、実は碧眼と黒目のふた色の瞳を持つ。

☆貞順大王大妃(シン・チェスン)-韓流時代小説「後宮秘帖~逃げた花嫁と王執着愛」主人公。
三代前の国王知宗の正室。王室の最長老であり、後宮の最高権力

者。


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「ハン女官、ハン女官!」
 セリョンはハッと我に返った。どうやら、自分が呼ばれていたらしいと今更ながら気づき、顔を上げる。
「あ、はい」
 立ち上がると、緑色の上衣と蒼色のチマという尚宮服の女官が怖い眼で睨んでいる。
「尚宮さま(マーマニム)、申し訳ありません」
 これ以上下がらないほど頭を下げて謝ると、三十後半の尚宮は呆れたように首を振った。
「昼日中から、何をボウとしているのだ、私に幾度呼ばせるつもり?」
 セリョンは〝ハン・チェギョン〟という名で女官として入宮し三日目、いまだ自分の名前ではない偽名で呼ばれるのに慣れない。神経を研ぎ澄ませているときは良いのだが、少し気を抜くと偽名で呼ばれても反応ができないのだ。
―まぁ、仕方ないわね。私はチョン・セリョンで、十六年間、ずっと、その名前に慣れているんだもの。
 一体、どのくらいの間、後宮(ここ)にいなければならないのか判らないけれど、おいおい偽名にも慣れてくるだろう。―と、セリョンは至って楽観的だ。生来、深く考え込まない質なのだ。自分では悪くない性格だと思うのに、母はいつも〝単純すぎる〟と不満そうに言う。
 そう、母といえば、セリョンが後宮に潜入するに辺り、むろん女将は猛反対した。
―ムミョンのヤツ、お前を妾にしたりしないと言った口が渇かない中にもう、後宮に召し上げる魂胆なのかえ!
 最初は勘違いをして怒り出し、セリョンは懸命に事情を話すと
―なんだって、大切なお前をそんな物騒な事件に巻き込むだって、冗談もたいがいにして欲しいね、一昨日来やがれってえんだ。
 と、また別の意味で怒り狂った。
 女将は最後まで反対していたのだが、最後にはセリョンの奥の手〝一生に一度のお願い〟に根負けした。ただし、
―絶対に傷一つ負わず無事に翠翠楼に戻ってくること。身に危険を感じたら、それ以上拘わらないこと。
 をくどいほど約束させられて、ようやっと許しが出た。最初、話を聞いた直後は本当に懐剣を持って王宮までムミョンに直談判しに乗り込んでゆきそうな勢いだったのだ。
 まさか実名を使うわけにもゆかず、とりあえず偽名で後宮に入った。セリョンの今の立場は、見習い女官だ。普通、女官は十歳前後で幼くして入宮する。厳しい見習い期間を経て数年後、初めて一人前と認められる。セリョンの歳で入宮する娘は稀であった。
 国王の側近く仕えるわけだから、女官の審査はかなり厳しい。これが雑用係(ムスリ)などの最下級の女官であれば詮議も形ばかりで済むが、仮にも上級女官への登竜門となれば、それなりの審査はある。
 が、セリョンの場合はムミョンが根回ししたため、詮議はほぼないに等しかった。彼女は内禁衛将の妻の姪という触れ込みで、身分証明書まで作って入宮したのである。
 妓房では掃除洗濯、料理と何でもこなしたから、仕事はできるとまでは言わないが、後宮でもまごつくことはないと高をくくっていた。だが、その目測は甘かった。女官といえば、美人でしとやかという認識があり、庶民からすれば憧れの職業である。
 あわよくば王の眼に止まりお手つき女官から側室、更には御子の生母となる玉の輿に乗れる。一般にはそんな風に思われているけれど、事実はまったく相反していた。
 妓房の雑用など、女官の仕事に比べたら、たいしたことはない。殊に翠翠楼でのセリョンの立場は女主人の娘で、一応〝お嬢さま〟だった。雑用に従事するといえども、大勢の使用人の指揮を執り、彼等の協力を得ていたのだ。
 ところが、後宮ではそうはゆかない。特に中途半端に見習いで〝縁故〟採用されたため、上司の尚宮初め仲間の女官たちからも風当たりは強かった。また、新入りの通過儀礼ともいうべき〝しごき〟もあり、目下は各殿舎の厠掃除をして回っているという有り様である。
 今日はやっと言いつけられた厠の掃除が終わったら、すぐに起居する殿舎の廊下拭きと来た。今はまさに、せっせと廊下を磨き上げていた最中だ。
「今、大妃殿の尚宮さまから遣いがあって呼び出されゆえ、行ってきたのだ。どうやら、そなたの掃除の仕方が至らなかったようだ。共用で使う厠に汚れが残っていたというぞ」
 尚宮は横柄に言い放つ。セリョンは顔を上げた。
「尚宮さま、そんなはずはありません。私、汚れが残っていないかどうか、最後にもう一度点検しました」
「黙れ、そなたは私や大妃殿の尚宮さまが嘘をついていると申すのか!」
「そうは言っておりません、でも―」
 言いかけた時、ピシリと乾いた音が響いた。セリョンは茫然と痛みのある頬を抑えた。厳しく育てられてきた母にも打たれたことはない。
「上司に口答えは無用と、最初の女官心得で教えられなかったか?」
 きつい口調で言われ、セリョンは唇を噛みしめた。確かに、入宮してすぐに指導係となった年嵩の女官から渡された〝女官心得〟の冊子にはそんなことも書いてあった。
「申し訳ありませんでした」
 口惜しさを堪え、セリョンは頭を下げた。
 廊下を磨き上げた後、汚水の入った桶と汚れた雑巾を持って井戸まで歩く。ここの井戸で普段は洗濯もするのだ。この洗濯がまた苦行といった感がある。同じ殿舎で暮らす女官たち全員の衣服から下着に至るまですべて一人で洗わなければならないのだ。
 身体を動かすのは苦にならない質で、仕事も嫌いではないはずなのに、何故か、後宮では日々、憤懣が溜まるばかりだ。同じ年頃の女官もたくさんいて、親しくなった娘も数人はいる。それでも、彼女たちは見習いからたたき上げて正式な女官となった娘たちで、セリョンとは立場が違う。
 尚宮や先輩たちの眼の届かない場所では気安く話せても、普段は彼女たちも距離を置いて接してくる。一日中、こき使われて疲労はは溜まる一方だ。ここまで来る足取りも重く、さぞヨロヨロとお婆さんのような覚束ないものだったに違いない。
 後宮に潜入して三日が過ぎていたが、まだムミョンから託された心中事件の捜査については何も始められていない。心は焦るばかりでも、雑用に追われて一日が終わり与えられた相部屋に戻れば、昼間の疲れから布団に入るなり深い眠りに落ちてしまう。
 捜査に当たり、ムミョンから特に指示は出ていなかった。セリョンはまずは後宮にいるという立場を活かして、亡くなった女官の周辺から洗い出してゆこうと考えている。あの事件は義禁府では早々に〝心中〟として片付けられたと聞く。つまり、男の方の死体が消えたというのに、ろくな捜査も行われなかったということだ。
 内禁衛将の方も王命により独自に動いてはいるらしいが、なかなか事件の謎は杳として掴めないらしい。
 誰が考えても、死んだはずの心中の片割れが忽然と消えるのはあり得ない。なのに、満足な調べもなかったのは、どうやら義禁府の上層部からの指示であったらしい。どう考えても面妖な事件を深く突き詰めれば、ややこしいことになるのではないか、という実にろくでもない判断である。
 国王英宗からは、再度の入念な捜査が命じられたにも拘わらず、
―男の亡骸も後に都内で発見されました。
 などと、まったくデタラメな報告が上奏され、それにて一件落着となったという良い加減さで、これが王命で動く天下の義禁府だというのだから、呆れたものだ。
 なので、当然ながら、心中で亡くなった男女の身許調査など杜撰なものである。もちろん、一通りは行われたが、本当に上辺だけのものだった。
 だからこそ、この事件は最初からきちんと一つ一つ洗い出し、見直してゆく価値があると思うのだ。こういった捜査では殊に基本が疎かにされがちだけれど、事件に関係した人物―亡くなった二人についての人物調査はとても大切だ。二人が生前、どんな人で、どんな生活をしていたのかを調べることにより、彼等が拘わった周辺人物も明らかになり、やがて一本の糸の先が見えなかったのが次第にどこに繋がるのか判るようになる。
 その糸の先に恐らく、この事件を企てた真犯人がいる。真犯人、そう、セリョンはこの事件は単純な心中ではないと考えていた。大体、亡骸が勝手に動くことはない。ならば、誰かが運び去った可能性が高い。
 誰が、何故、そんなことをしたのか? そして、その者こそが事件の重要な鍵を、もしくはこの事件の真犯人であるのではないか。
 考え込むセリョンの耳を甲高い声が打つ。
「国王殿下のお通りである」
 遠くに緋色の天蓋が見え、大勢の行列が横切るのが見えた。国王英宗が宮殿内を移動しているのだ。セリョンの立ち位置からでは国王の姿は小さく見えるだけだし、向こうからも判らないだろう。
 はるか遠方に、早足で歩み去る若い王、恭しく王の背後から天蓋を掲げて従う内官が見える。更に、その後ろには総勢二十名はいる内官、女官が畏まって続いた。
 セリョンはそれでも、その場で頭を下げた。そうするのが宮中の習いだからだ。
―あなたは本当に遠い男(ひと)なのね。
 改めてムミョンの本当の姿を突きつけられる。翠翠楼で逢うときの彼の姿は仮のもので、今、ここにいる彼が本当の姿。だとすれば、何と二人の住む世界は違うことか。最初から覚悟はしていたけれど、こうして彼の側で生活してみれば、余計に容赦ない現実が迫ってくる。
 翠翠楼と王宮、離れて暮らしていても、かえって逢えないときの方が彼を身近に感じられる。なのに、今、彼が住まう王宮に居ながら、眼の前を通る彼をこうして眺めているのに、彼と離れているとき以上に遠く感じられてしまう。
 思わず涙が滲み、手のひらでこすった。
 後宮に来たのは何もムミョンと恋を語らうためではなく、悲劇の死を遂げた若い二人の死の真相を解き明かすためだ。こんなことで泣いていては駄目。
 だが、尚宮に手加減せず打たれた右頬には、まだ痛みが残っている。改めて哀しみが湧き上がり、また泣きそうになったその時。
「大丈夫?」
 ふと声が落ちてきて、セリョンは顔を上げた。視線の先には、若い男が佇んでいる。深緑の官服は内官である。
「ありがとう。たいしたことはないの」
 セリョンは立ち上がり、内官に微笑みかけた。美しい男である。ムミョンの美しさも水際だっているが、この男も負けてはいない。ただし、真冬の月のようなムミョンに対し、この男は春の息吹を全身に纏っているような美男だった。とにかく、存在そのものが華やかである。