韓流時代小説 寵愛【承恩】
～隻眼の王の華嫁は二度、恋をする～
第二話 夜桜心中
「そう、今だけは、王と町娘ではなく、ただの男と女でいたい。せめて今だけは、ただのセリョンとムミョンでいられるこの大切な時間に浸りたい」
～遊廓の女将の娘が王様を好きになっても良いの？～
とある国王の御世、都漢陽では旅の一座が上演する仮面劇「王宮の陰謀」が大流行。
翠翠楼の一人娘、セリョンは念願叶って「王宮の陰謀」を見た帰り道、大怪我をして行き倒れていた美しい青年を助けるが－。
人物紹介
チョン・セリョン（鄭世鈴）－後の貞慧王后
妓房（遊廓）の看板娘。まだ幼い頃からセリョンを水揚げさせて欲しいと願う客が殺到するほどの美少女。外見を裏切るお転婆娘。明るく、落ち込んでも立ち直りの早い憎めない性格。
ムミョン（無名）－王世子（世弟）・後の国王英宗
自らを「無名」（名無し）と名乗る謎の男。雪の降る冬の夜、深手を負っていた彼をセリョンが助ける陰のある美男なところから、翠翠楼の妓生（遊女）たちに絶大な人気を集める。隻眼ということになっているも、実は碧眼と黒目のふた色の瞳を持つ。
☆貞順大王大妃（シン・チェスン）－韓流時代小説「後宮秘帖～逃げた花嫁と王執着愛」主人公。
三代前の国王知宗の正室。王室の最長老であり、後宮の最高権力
者。
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ムミョンの真摯な瞳から、女将はついと眼を逸らした。
「あなたもいつかお解りになりますよ。人の親になったらね」
ムミョンがすかさず言った。
「いずれ俺の子を産むのはセリョンだ、セリョンしか考えられない」
女将が真っすぐにムミョンを見つめた。
「私はあの子が幼いときから厳しく育ててきました。あの子は難しい漢籍だってすらすらと読みますし、教養は両班の姫君にだって引けを取りゃしません。けどね、セリョンはどう頑張ったって妓房の娘なんです。妓生ではないけど、遊廓で生まれ育った子です。そんな娘がやんごとなきお方の奥方になれるはずがない。もし、あなたがセリョンを側妾にするおつもりなら―」
「そのつもりはない」
ムミョンは覆い被せるように言った。予期せぬ剣幕に、女将は眼を瞠った。
「俺はセリョンを妾にするつもりはない」
「まさか」
流石にその先は女将も口にしなかった。遊廓の娘がこの国の母―中殿に昇るなど、あまりにも畏れ多いし考えられないことだ。
ムミョンは真摯な口調で続けた。
「むろん、星の数ほどの障害はあるだろう。だが、女将、俺を信じてくれ。障害があるなら一つ一つ取り除き、きちんと皆に納得して貰える形で、俺はいずれセリョンを正室として迎えたいと考えている。今はまだ、そこまでしか言えないが、しばらくは黙って見ていて貰えるとありがたい」
「そこまでおっしゃるのなら」
女将は小さな息を吐き出した。
「あなたを信じましょう。ただし、娘を絶対に泣かせないと約束して下さいますね、国王殿下」
「約束する、俺はセリョンを泣かせたりしない」
ムミョンの力強い言葉に、女将は複雑な溜息をついたのだった。
潜入～後宮のおんなの哀しみ～
掃除を終えたセリョンは自室に戻っていた。二階の奥まった一角に居室がある。そこは妓生たちが客を取る見世とは別棟で、女将とセリョン、更には妓生たちや住み込みの奉公人たちが起居していた。
廊下で繋がってはいるものの、まったく独立した建物のため、見世の喧噪はここまでは聞こえてこない。
セリョンに与えられた室は、さほど広くないが、薄紅色の紗が室の壁をぐるりと飾り、所々に蝶の美しい房飾りが垂れている。若い娘の居室らしい、控えめな華やかさがあった。
セリョンは窓際の文机に頬杖をつき、ぼんやりと物想いに耽っていた。傍らに小さな紫檀の丸宅があり、青磁の小さな花入れに桜のひと枝が活けられている。
新しい王の即位式が宮殿で盛大に行われたのは、都のそこここが桜の花で彩られた春のただ中であった。流石に今は桜も散ってしまったけれど、翠翠楼の常連の一人が遅咲きの珍しい桜だと贈ってくれたのをセリョンもお裾分けして貰った。
翠翠楼は構え自体は、さほどではない。どう見ても中規模どころだが、置いてある調度や室のしつらえ、更には客に出す酒肴などが上等のものばかりだ。そのお陰で、両班や富裕な商人など上流階級の客がついている。
遅咲きの珍しい桜を贈ってくれたのも、そんな豪商の一人だ。何でも庭にその桜があるのだとか。
もしや女将との話の後、ムミョンがここを訪ねてきてくれるのではないかと期待していたのだけれど、いつまで待っても、彼は現れない。もう、帰ってしまったのだろうか。
母があまりに頑固に反対するので、愛想を尽かしてしまった？ それとも、改めて遊廓の娘なぞ、本気で相手にしていられないと思った？
考えれば考えるほど、思考は悪い方へと向かってしまう。思わず滲んだ涙を手のひらでゴシゴシとこすった時。
「うん、これは何だ？」
ふと声が落ちてきて、セリョンは弾かれたように顔を上げた。
「ムミョン」
セリョンの眼尻に浮かんだ涙をめざとく見つけ、ムミョンが眉を寄せた。
「どうした、泣いていたのか？」
「だって、ムミョンがもう帰ったのかと思ったら―」
ふいに引き寄せられ、セリョンは彼の広い懐にすっぽりと抱き込まれた。
「馬鹿だな。俺が翠翠楼に来て、そなたに逢わずに帰るはずがないだろう」
「でも」
縋るように見つめられ、ムミョンがセリョンの黒檀の髪を撫でた。
「安心しろ、女将との話はケリがついた。―っていうか、とりあえずは納得してくれたと言った方が正しいだろうな」
「そうなの！ おっかさんが私たちのことを認めてくれたの？」
刹那、セリョンの大きな瞳が輝き、ムミョンは眩しげに彼女を見つめる。
「まあ、一応はだな。だが、女将が心配する気持ちは何となく判る。俺がいつか父親になったとしても、可愛い娘をかっさらってゆく男はどんなヤツだとしても追っ払いたくなるはずだ」
少し茶化したような物言いは、わざとなのだろう。ムミョンなりにセリョンの気持ちを引き立てようとしてくれているのだ。
「ムミョンったら」
セリョンが笑うのに、ムミョンも小さく笑い、雰囲気を変えるように口調を変えた。
「お、これは何だ？」
いきなり文机の上に置いてあった読みかけの本を取り上げられ、セリョンは狼狽えた。
最近、都でも小説本を読むのが流行っているとはいえ、やはり、そういうのを読むのは女子どもだと見なされている。教養のある両班は小説など読まない。
もっとも、小説を低俗な俗本だと敬遠する両班家でも、奥方などは良人に内緒でこっそりと読んでいると専らの噂だが。
それでも、自分が小説に夢中だと知られるのは恥ずかしい。
「あっ」
セリョンは手を伸ばした。
「返して」
けれど、それでなくとも上背のあるムミョンが本を高々と持ち上げれば、小柄なセリョンは爪先立ちしても敵わない。
「なになに」
ムミョンが改めて本の表紙を見やる。表紙には〝夜桜心中〟と書いてあった。
「何なんだ」
呟く彼の手からセリョンは、さっと本を奪い返す。
「あっ、やられた」
ふふっ、とセリョンは笑った。
「翠翠楼のセリョンを甘く見たら駄目よ」
セリョンは奪い取った本を片手に持ち上げ、もう一方の手で握りしめた拳を突き出し勝利のポーズをした。そんなセリョンを見て、ムミョンは笑っている。
「どうせ子どもみたいだと言いたいんでしょ」
息巻くと、真顔で言われた。
「いや、何かセリョンって、どんな表情をしていても可愛いなと思って。さっき泣いていたときも、俺に本を取られて怒ったときも、今の得意満面な顔、表情がくるくると変わって、どの顔も可愛い」
「―」
あまりに直裁な言葉に、セリョンの頬が紅くなった。もしや王さまというのは、女ばかりの後宮で生まれ育つから、女をくどき慣れているのだろうか。
「ああ、そうやって恥ずかしがる顔も可愛いぞ」
遠慮もなく人差し指で頬をつつくものだから、つい言ってしまった。
「気安く触らないで」
「つれないなぁ、俺たち、こういう仲だろ」
と、掲げた左手には月長石（ムーンストーン）の指輪が填っている。同じものがセリョンの左手にも填っていた。離れていても心は繋がっている証と、セリョンがムミョンに贈ったものだ。この指輪があるから、セリョンは彼と会えない間も何とか耐えられるのかもしれない。彼からまだ〝好きだ〟と言って貰ったことはないけれど、それよりももっと大切な言葉をくれた。
―将来、そなたは俺の妻になる。
ムミョンの本当の立場を考えれば、今はまだ想像もできない途方もないことのように思えるが、今はまだ彼と二人だけの時間を楽しみたい―というより、今のままの関係がずっと続けば良いのにとさえ願ってしまう。
色町の遊廓で育ったセリョンにとって、国王さまの住まう王宮など雲の上で、現実の世界とも思えなかった。
「ところで、もう一度訊くが」
ムミョンがやけに真剣な顔で訊ねるのに、セリョンも真顔で頷く。
「なあに？」
「この〝夜桜心中〟というのは、どんな本なんだ？」
「知りたい？」
セリョンが上目遣いに見上げると、ムミョンがコクコクと頷いた。
「ああ」
「何で？」
ムミョンが子どものように口を尖らせた。普段は王さまという立場のせいか大人びて見えるが、こういう表情をすると年相応の若者に見える。
「男は愛する女のことなら、何でも知りたい。逢えない間、何をしていたのか、気になって仕方がない」
ムミョンは言うだけ言い、精悍な顔を朱に染めた。セリョンがじいっと見つめているのに気づいたらしい。
「な、何だ、俺はそんなにおかしいことを口走ったか！」
慌てるムミョンに、セリョンは首を傾げた。
「―そなたは、俺のことが気にならないのか？ 宮殿にいる間、俺が何をして過ごしているとか、考えたりしないか」
「さあ？ どうかしら」
悪戯っぽく言えば、ムミョンの顔がますます赤らんだ。
「わざとやったな、こいつめ」
ムミョンがセリョンを再び腕に閉じ込め、額と額をコツンと合わせた。
「ちょっと、ムミョン、何してるの。距離が近すぎ」
セリョンは慌てて彼の腕から逃れた。今度はセリョンが紅くなる番で、そんな彼女を見てムミョンが笑っている。
―本当に子どもなんだから。
ムミョンが先ほどの腹いせにわざと迫るふりをしたのは判っていた。彼が悪戯で仕掛けたと知りつつも、唇と唇が触れそうな至近距離まで迫られたら、心臓が口から飛び出してしまうのではないかと思うほど高鳴っている。我ながら、情けない。