韓流時代小説 後宮秘帖~諦めない-瞳の奥で燃えるのは消えない恋の炎。廃妃は内官と王の狭間で揺れる | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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韓流時代小説 後宮秘帖

 ~逃げた花嫁と王の執着愛~

  第三話  Temptation(誘惑)・後編

 

~こんな私があなたの側にいても良いのですか~

 

-それは「ひとめ惚れ」から始まった初恋だった-

二人が出会ったのは11歳。
王になるべくして生まれた少年と、謀略によってすべてを失い、苛酷な宿命を背負った少女。
孤独な魂を持つ二人は運命に導かれるようにして、出会った。

 様々な試練や障害を前にしながら、互いを想い合うがゆえに、すれ違い傷つき合う若い二人。
 果たして、二人は幼い日に芽生えた初恋を実らせることができるのか?

 

 登場人物
  イ・ソン(李誠)-後の国王・知宗  
  シン・チェスン(申彩順)-後の貞順王后(チョンスンワンフ)

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「幻滅なんてしないわ。でも、こんな絵を描くのはもう止めてちょうだい」
 ハン内官が懇願するように言う。
「淫らな絵はもう描きません。でも、せめて、あなたを描くことだけは許して下さいませか?」
 チェスンはおずおずとハン内官を見上げた。真摯な視線は、けしてふざけているわけではない。彼なりにチェスンを恋い慕ってくれているというのは、きっと真実なのだろう。
 もしかしたら、ここで今、自分は男なのだ、あなたが思い描いているような、この絵の中の女ではないのだと告げたなら、ハン内官の恋慕も消えるのかもしれない。恐らく、彼のためには自分の性別を明らかにした方が良い。
 だが、それではソンの体面を傷つけることになる。男を女と偽り妃として迎えた王、ハン内官が口外するとは思えないが、万が一、どこかから秘密が洩れたら、大変なことになる。王朝を揺るがす醜聞にもなりかねず、ソンの国王としての威信は地に落ちるだろう。
 大切なソンの名誉を傷つけることは断じてあってはならないのだ。チェスンはハン内官に真実を告げたくても、告げられなかった。
 チェスンは頷いた。
「判った、私の絵を描くのはあなたの自由だけど、これからもう、あんな絵は描かないで」
 それ以上、彼の側にいるのは耐えられず、チェスンが籠を持って背を向けたその時、ハン内官の声が追いかけてきた。
「淑媛さま」
 振り向くと、彼の思い詰めたような顔があった。
「いつか王宮でお話ししたことを憶えておられますか?」
 先を促すように見つめると、彼はかすかに笑みを浮かべた。
「山茶花の咲く季節、あの花たちの咲く庭でお話ししました。あのときも私はあなたの絵を描いていて、あの絵が完成したら、あなたに貰って欲しいとお願いしたんです」
「憶えていてよ」
「実はいまだにまだ完成していないんです。山茶花のあの夢のように美しい鮮やかな色がなかなか出せなくて、四苦八苦しています。花を塗れば完成なんですけどね」
 ハン内官の双眸の奥で燃え続けるのは、消えることのない恋の焔。
「楽しみにしているわ、ハン内官」
 チェスンは言うだけ言うと、全身に纏いついてくる彼の視線から逃げるように、その場を離れた。よもや、その一部始終をソンが少し離れた紫陽花の茂みから見ているとは想像だにしなかった。

 

 夜になった。折しもその夜は満月で、紫紺の空には星たちが輝き、ふっくらとした月が地上すべてのものに清かな光を投げかけていた。夜になって風が出てきたようで、雲の流れが速い。雲が動く度に月が隠れ、また顔を見せる。その様を眺めているのも飽きず、チェスンはずっと空を仰いでいた。
 流石に首筋が痛くなり、視線を動かしたその時、月明かりにひっそりと浮かび上がる茂みが眼に入った。紫陽花の薄い蒼色がひそやかに夜陰に滲んでいる。
 紫陽花といえば、チェスンの記憶に今も鮮やかに咲き続けている想い出がある。十二年前、ソンと初めてめぐり逢った日、彼の暮らす屋敷にも海色の紫陽花がたくさん群れ咲いていたのだ。今はまだ色づき始めたばかりだけれど、あの日の紫陽花はすっかり鮮やかな深い色に染め上がっていた。
 誰に言われずとも、不思議な縁だとチェスン自身も思った。父親同士が盟友であるはずなのに、片方が裏切り陥れ、チェスンの父は罪人として処刑された。それぞれの父から生まれた息子たちが十一年後に出会い、恋に落ちた。
 チェスンが仮に女だったとしたら、事態はもう少しは判りやすかったかもしれない。けれど、我が身は男として生を受けた。父親同士が仇で、その子どもたちは同じ性を持つ者として出会いながら愛し合った。
 自分がソンを諦めるだけの潔さを持てたなら―。チェスンは手を伸ばし、淡い色に染まった花を人差し指で撫でた。
「お慕いしています」
 大粒の涙が溢れ出し、頬を流れ落ちる。
 夜空に浮かぶ満月に照らし出されたチェスンの横顔は、この世の者とは思えないほど妖艶で美しい。純白のチマチョゴリ姿ともあいまって、月の女神か、はたまた月の光が凝って人の形を取ったなら、こんな妖艶な美女に変化するのかもしれない。
 チェスンの視線がつと動く。その先には、母屋の屋根にちょこんと前足を揃えて座る黒猫がいる。名虎は後ろ姿を見せ、チェスンに倣うかのように円い月を見上げていた。
「名虎」
 呼ぶと、耳ざとく主人の声を聞きつけ、タタッと鮮やかな身のこなしで屋根をつたい降りてくる。少しく後、小さな黒猫は忠実な護衛武士よろしく、チェスンの足下にうずくまっていた。
「私はまだ、あの方をこんなにも好きなの」
 未練だと思いながらも、王を忘れられない。どうしたら、あの男を忘れられるのだろう、あの優しい笑顔を思い出さずにいられる日がこれから先、本当に来るのだろうか。
 自分でも面妖なことに、チェスンが思い出すのは優しかったソンの想い出ばかりだ。廃位される直前、乱暴に抱かれた日や先日、別人のように憤ってチェスンを連れ去ろうとしたソンではない。
 そして、今もなお、チェスンは王に恋い焦がれていた。ひっそりと涙を流しているチェスンのチマに、名虎がじゃれついてくる。
 チェスンはしゃがみ込み、名虎を抱き上げた。名虎は慰めるかのようにニャーと啼いた。気のせいか、名虎の鳴き声も哀しげだ。名虎は小さな舌を出し、チェスンの手をペロペロと舐めた。
「うふっ、くすぐったいじゃない」
 チェスンが笑い声を上げ、名虎はまたミャアと啼いた。つぶらな黒い瞳が無心にチェスンを見上げてくる。
「また、お前が元気づけてくれるのね」
 小さなこの猫には、どれだけ勇気づけられ、癒されたことかしれない。去年の終わり、町で子どもたちに虐められているのを助け、王宮に連れ帰った。チェスンにはもう、この小さな黒猫が自分の分身か、我が子のような気がしている。名虎は大切な家族となっていた。
 チェスンは名虎を腕に抱き、月を見上げる。何ひとつ欠けたところのない月は、純金で仕上げた細工物のようだ。今夜は月が近く、月面の浮き上がった模様はさながら、職人が丹精込めて刻み込んだ彫刻のようにも見える。
 一人と一匹は物言わず、その後も純金の月を見つめ続けた。
 
  想い逢う

 

 いつか、あの男を忘れられるのだろうか。チェスンの満月の夜の惑いは、それからも消えることはなかった。
 一旦は気力を取り戻したものの、チェスンは再び沈みがちになった。養父のヨクは何とかしてチェスンに笑顔を取り戻してやりたいと珍しい仮面劇を披露する旅芝居の一座がいると聞けば、屋敷まで呼び寄せた。郊外に霊験あらたかな寺があると聞けば、チェスンを連れて寺詣でに出かけた。
 夏の終わりには海を見たことがないというチェスンを都から少し離れた海まで連れていった。
 確かに、ヨクの真心と優しさは一時、チェスンの慰めにはなった。仮面劇は年若い国王と女官の悲恋を描いたもので、紆余曲折を経て二人が結ばれ、王の妃として幸せな蜜月を過ごしていたある日、若い王が逆心によって暗殺されるという悲劇で幕を閉じる。
 ヨクは予め演目を聞いておらず、内容を知ると顔色を変えた。
―止めよ、このようなものは今すぐに止めるのだ。
 叫んだ父を止めたのは他ならぬチェスンだった。
―お父さま、役者たちに罪はありません。良いと思って、この演目を選んだのです。折角ですから、最後まで見ましょう。
 チェスンの取りなしに、ヨクも口を噤んだ。
―済まん、かえって、そなたに余計なことを思い出させてしまったな。
―いいえ、とても美しい物語でした。哀しいお話だけれど、王さまも娘も一途に思い合っているのがよく伝わってきましたもの。
 それは偽りではなかった。悲劇には違いないが、知り合ってから死別するまでの間、王も娘も生命を精一杯燃やし尽くして生き、愛し合ったのだ。二人とも本望ではなかったかと思える。
 夏の終わりに見た海は、壮大で果てしなくもチェスンはただただ圧倒されるしかなかった。足袋ポソンを脱いで、そっと白い砂浜を洗う波打ち際に脚を浸せば、脚はひんやりと気持ち良かった。
 この広い世界には、自分などが知らない、思いもよらない場所があるのだ。初めて海をかいま見た経験は、チェスンにそんな想いを抱かせた。澄んだ青々とした海は磨き抜かれた宝石よりも輝き、その後もチェスンの記憶に鮮やかに残った。
 ヨクと輿を連ねて赴いた郊外の寺詣りは殊に印象深かった。金色の大きな仏像がはるかな高みから見下ろす本堂で、ヨクの傍らでチェスンも父と同じように数珠をかけ、幾度も跪いて礼拝を繰り返した。
 長らく住持を務めているという老住職の説法を聞き本堂を出た時、外には白い花びらが舞っていた。
「初雪ですね」
 チェスンが空を振り仰いで言うのに、ヨクは頷いた。
「道理で寒いはずだな」
 それもそのはず、暦は既に十二月に入っていた。そういえばと、チェスンは今更ながらに思い出す。下町で名虎を拾って帰ってきたのも都に初雪がちらちらと舞った日だった。
 流石に今日だけは名虎を連れてくるわけにはゆかず、愛猫は都の屋敷で留守番である。
「先ほどのご住職のお話で、私、海を思い出しました」
「海?」
 ヨクが眼をまたたかせる。
「私たち人間が生々流転を繰り返し、現世から肉体が消滅したとしても、この世には変わらないものもある。そういうお話でしたね」
「ああ、自然は雄大で変わらないと老僧はおっしゃっていた」
「それで、海を思い出したのです」
「なるほど」
 ヨクが頷き、チェスンはどこか遠い瞳になった。
「お寺の仏さまを見たのはこれが初めてではありませんが、哀しいお顔をなさっておられましたね」
「そうなのか? 私には別段、そのようには見えなかったが」
 チェスンの視線は寺をぐるりと囲む壁の向こう―はるかに見渡せる連山に向けられているかのようでもあった。けれど、ヨクはチェスンの心がここにはないことを悟った。
「私にはむしろ、あの観世音菩薩は微笑んでいらっしゃるように見えたがな」
 チェスンのいらえはなかった。ヨクは静かな声音で言った。
「人は哀しみの淵にある時、仏を見れば、その仏は泣いているように見えるという。チェスン、私もずっと昔、妻に先立たれた時、供養に訪れた寺で仏像を見たら、仏が泣いているように見えたものだ。一緒に来た執事に問うても、執事は首を振るだけだった。その時、我が家に長年仕えた老いた執事が私に言ったのだよ。仏はその時、拝んだ者の心を映し出す鏡であると」
「仏さまが拝んだ人の心を映し出すのですか?」
「そうだ、ゆえに、妻を失って悲嘆に暮れていたそのときの私には仏像が涙を流しているように見えたのだろう」
 チェスンはまたも黙り込む。ヨクは続けた。
「そなたの両親は今も健在だ。今のそなたが何ゆえ、そこまで哀しむことがある?」
 話し込んでいる間も、雪は止むどころか、ますます烈しくなっている。チェスンの結い上げた漆黒の髪にも雪が舞い降りている。
 純白のチマチョゴリの上に毛織の胴着を着てはいるものの、薄物だけでは凍えてしまう。ヨクが眼顔で合図すると、側に控えていた女官が近寄ってきて、チェスンの背後から中綿入りの外套をチェスンに羽織らせた。
 ふとチェスンが足下を見やる。
 娘の視線を追えば、本堂の横についている出入り口のすぐ側に山茶花が見えた。本堂の真正面には両開きの立派な扉があるが、普段は閉ざされていて、参詣者は横の小さな扉から直接入れるようになっているのだ。
 山茶花は自生したものか、一本しかない。けれど、無数の花が重たげについており、しかも一つ一つの花は見事としか言いようのない大輪ばかりである。町中で見かけるよりは更に色も濃いピンクに染まり、名だたる職人が精魂込めて作り上げた宝飾品にも勝るとも劣らず艶やかで美しい。
 チェスンはほっそりとした手を伸ばし、愛おしい者の膚に触れるかのような手つきで花びらに触れる。