韓流時代小説 後宮秘帖~忘れられない-廃妃の住まいに現れた国王。王の寵姫への想いはいまだ消えず | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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韓流時代小説 後宮秘帖

~逃げた花嫁と王の執着愛~

  第三話  Temptation(誘惑)・後編

 

~こんな私があなたの側にいても良いのですか~

 

-それは「ひとめ惚れ」から始まった初恋だった-

二人が出会ったのは11歳。
王になるべくして生まれた少年と、謀略によってすべてを失い、苛酷な宿命を背負った少女。
孤独な魂を持つ二人は運命に導かれるようにして、出会った。

 様々な試練や障害を前にしながら、互いを想い合うがゆえに、すれ違い傷つき合う若い二人。
 果たして、二人は幼い日に芽生えた初恋を実らせることができるのか?

 

 登場人物
  イ・ソン(李誠)-後の国王・知宗  
  シン・チェスン(申彩順)-後の貞順王后(チョンスンワンフ)

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「これも母御直伝のものか?」
「ええ。これを食べたら、ほっぺたが落ちそうになりますよ?」
 チェスンが言うのに、ヨクが声を上げて笑った。
「それも父御の科白かな?」
「はい!」
 チェスンが元気よく応え、紅くなった。
「私ったら、子どもみたいにはしゃいで、不作法ですね」
 ヨクは首を振る。
「いやいや、元気が良くて、よろしい。この屋敷は長らく活気もなく淋しかったからな。そなたが来てから、随分と賑やかになった」
 ヨクの言葉は心からのものだ。チェスンは朗らかで、笑顔が絶えない。この屋敷に来た頃は沈んでばかりいて、眼を離せば自害でもしそうなほどで、ヨクは常に後宮から付いてきた女官にチェスンを見守っているようにと命じたほどだ。
 けれど、元々、明朗な質であったのだろう。ヨクと一緒に野菜を育てる中には次第に元気を取り戻し、今は三ヶ月前とは別人のように明るくなった。
 本当に娘を得たような気持ちだ。あと何年生きるのかは知れないが、晩年になって思いがけず、こんな穏やかな幸せを得られるとは考えだにしなかった。亡くなった妻以外に心から大切だと思える存在を持てた歓びを、チェスンが与えてくれたのだ。
 そのときだった。ニィとかすかな啼き声が膝元で聞こえ。チェスンが笑いながら声のした方を見やる。
「名虎、どうしたの、もう、ご飯を食べたの?」
 黒いつぶらな瞳がじいっとチェスンを見上げている。チェスンが問いかけると、猫は不満げに鼻を鳴らした。
 ヨクが傍らから笑いを含んだ声音で割って入る。
「どうやら、猫どのは私がそなたを独り占めしているのがご不満らしい」
 ヨクは名虎を〝猫どの〟と呼んだ。生後半年の名虎はまだ子猫だ。どうやらチェスンを母親だと思い込んでいるらしく、後宮を去るときもチマの裾に纏いついて離れようとしなかった。もちろん、チェスンも名虎を置いてゆくつもりはなかったのだが。
「おいで」
 と手をひろげれば、名虎は当然というような顔でチェスンの膝に飛び乗り、眼を閉じて気持ち良さげに眠ってしまった。
 気立ても良いし、優しく気遣いもできる。しかも、聡明だ。これでチェスンか゜男ではなく女であれば、間違いなく王妃にもなれる器を持っている。しかも、若き国王のチェスへの寵愛は厚い。このような王妃にふさわしい人物が女ではなく男であったとは、神仏も惨いことをなさるものよ、と、ヨクは思わずにはいられない。
 チェスンの人となりを知るにつけ、男であるにも拘わらず、彼が王に熱愛されたのかも納得できた。
 つい言わずもがなの科白が洩れた。
「そなたを嫁に貰った男は、この国一の幸せな男だ」
 次いで、ハッと我に返った。
「済まぬ」
「いえ」
 チェスンは儚く微笑んだ。その笑顔には拭いがたい翳りが差している。
 チェスンはヨクを心配させまいとして、無理をして笑顔を作った。だが、人生経験の豊かな養父はチェスンの心中なぞお見通しらしい。
「まだ殿下のことを忘れられないのか?」
 チェスンは無言だった。けれど、ヨクはチェスンの揺れる瞳の中に王への消えない深い想いをかいま見た。
 チェスンは話を変えたくて、わざと明るい声で言う。
「さあ、頬が落ちそうなほど美味しい鶏を召し上がって下さい」
 ヨクの前の小卓にはひときわ立派な鶏の蒸し物がある。チェスンは鶏の蒸し物を箸でむしり、まだ湯気の立つヨクの飯椀に乗せた。
「どうぞ、お父さま」
 チェスンが更に笑顔で勧めたのと、背後の扉が荒々しい物音を立てたのはほぼ同時のことだ。チェスンもヨクも、突如として登場した男を呆気に取られて見上げた。
「随分と二人で愉しくやっているようだな」
 男―何と国王知宗であった―は、大股でチェスンの側まで来ると、皮肉げな顔で睨めつけた。
「王宮を出て意気消沈しているかと思えば、もう父親とよろしくやっているのか!」
 王は憤懣やる方ないといった表情で、チェスンを睨みつけてくる。
「そなたというヤツは、どこまで節操がないんだ! 内官と通じた後は、今度は父に色目を使うのか? 男と見れば、誰にでも愛想を振りまくのか。この男は義理とはいえ、そなたとは親子の縁を結んだ者だぞ」
 慌ててヨクが立ち上がった。彼はチェスンを庇うように、王と向かい合った。
「殿下、突然のお越しとは、一体何かご用でしょうか?」
「右相、そなたは、昨日、風邪気味で勤めを休んだはずだが」
 怒気を孕んだ王の声にも、ヨクは落ち着き払って応えた。
「さようでございます。年のせいか、夏風邪を引きましてな。大事を取って休ませて戴きました」
「俺が見るからに、そなたには休みが必要だは思えんがな。血色も良いし、愛娘とじゃれ合う元気もあるようだ」
 王はわざとらしく〝愛娘〟のところを協調した。
「お言葉ながら、殿下、本日は私は非番となっております」
「そのようなことは聞いておらぬ!」
 王は怒鳴るように叫び、チェスンを真上から見据えた。
「やはり、そなたをここには置いてゆけぬ」
 チェスンは大きな眼を一杯に見開いて、王―ソンを見つめた。離れ離れになってから痩せたのは、チェスンだけではなかった。ソンもまた端正な顔の頬が削げ落ちて、鋭角的になっている。眠れないのか、切れ長の眼(まなこ)の下には隈がくっきりと浮き出て、誰が見てもやつれているのが判った。
―お身体を壊されているのだろうか。
 チェスンは、心配で堪らない。嫌いで側を離れたのではない。ソンの幸せを願うからこそ身を引いたのに、ソンは少しも幸せそうではなかった。
「俺と一緒に宮殿に帰るんだ、チェスン」
 ソンが迫ってきて、チェスンは彼の表情の凄まじさに総毛立った。怒りが閃く烈しいまなざしは触れただけで、焼き殺されそうだ。
 チェスンは何故、いきなり現れたソンがここまで怒るのか理解できない。
「宮殿に連れ帰って、そなたがやはり誰のものか、その身体に思い知らせてやる」
 刹那、チェスンの記憶にあの日の出来事がまざまざと甦った。今年のまだ寒い時期、初めてソンに抱かれた日の記憶だ。あの時、別離を告げにきたと憤り、ソンはチェスンを陵辱した。あれは本当に強姦としか言いようがないほど酷い扱いだった。初めて抱かれるチェスンを思いやりもせず、ソンは乱暴にチェスンを押し倒し、容赦なく幾度も刺し貫いたのだ。
 あの時、チェスンは悲鳴を上げ、泣き叫んで許しを乞うた。なのに、ソンはチェスンの涙など見えないかのように、チェスンの無垢な身体を蹂躙し、初花を幾度も散らしたのだ。
―怖いっ。
 チェスンはあの日の陵辱を思い出し、身体を震わせた。このままソンに連れ帰られたら、また、あんな恥ずかしくて辛い想いをする羽目になるかもしれない。
 チェスンは恐怖に身を強ばらせ、嫌々をするように小さくかぶりを振る。
「いや、帰りません」
「チェスン、来い」
 ソンがなおもチェスンに近づこうとするのに、チェスンは怯えてヨクの背後で身を縮めた。追い詰められた野ウサギのように、じりじりと後退するチェスンに、ソンが苛立ったように叫ぶ。
「一緒に来いという王命に従えないのかっ」
「いや、いや、帰りたくない」
 チェスンの眼に透明にな滴が溢れた。恐怖のあまり、涙がこぼれた。
 いきなり身体が宙に浮き、チェスンは悲鳴を上げた。いつしかソンに荷物のように担ぎ上げられていた。
「お許し下さい、殿下、お許し下さい」
 チェスンは泣きながら首を振った。ヨクがソンの前に立ちはだかる。
「殿下、ご乱心なさいましたか? いきなり臣下の屋敷にお越しになり、娘を略奪するように攫ってゆかれるなど、たとえ殿下とて許されるおふるまいではありませんぞ」
「そなたの娘ではない。俺の妃だ」
 事もなげに言いはなった王に、ヨクは言った。
「チェスンはもう殿下の妃ではありません。殿下おん自ら、チェスンを廃位になさったのではありませんか、お忘れですか」
 どこかで猫の威嚇するような声が響いている。見れば、名虎がヨクを援護するように側で毛を逆立てて唸っている。強引にチェスンを攫おうとするソンに抗議するかのようだ。
 ソンが緩慢な動作で、毛を逆立てる黒猫を見る。理路整然としたヨクの言葉に、ソンの動きが止まった。
「殿下、我が娘の気持ちも考えてやっては頂けませんでしょうか。殿下のおんゆく末だけをひたすら考えて、心ならずも王宮を去ったのです。今更、チェスンを取り戻して宮殿に連れて帰って、その処遇をいかがなさるおつもりなのですか?」
「くっ―」
 ソンが悔しげに呻き、チェスンから手を放した。王は肩に担いだチェスンをそれでも壊れ物でも扱うかのような手つきで、床に降ろした。
 そのまま無言で踵を返し、室を出てゆく。両開きの扉が音を立てて閉まった。
 チェスンはその場に座り込み、両手で顔を覆った。涙が後から堰を切ったように溢れ出て止まらない。
「チェスン」
 気遣わしげに名を呼ばれ、チェスンは涙を拭い、ヨクを見上げた。
「殿下はまだお若い。ゆえに、いまだそなたを忘れ得ぬあまり、ご自身に歯止めがきかなくなったのではないかと思うが」
 取りなすような口調には、深い労りがこもっていた。チェスンはヨクに無用な心配をかけたくない。まだ、しゃくり上げているにも拘わらず、幾度も頷いた。
「判っています」
 チェスンを求めて激情に駆られるあまり、ソンは時に荒々しく求めてくるときがある。でも、基本的には、とても優しい人だ。民のことを思い、自分はつましい暮らしをしても、民の負担を減らしたいと願い、年貢の取り立ても王命で数年前に軽減された。
 国中の民が年若い王を慕っている。そんな王だからこそ、彼が王として進む道が平らかであることを願い、身を引いたのだ。けれど、自分の選択は間違っていたというのだろうか。
 ソンは一体、自分をどうしたいのだろう。チェスンから頼んだとはいえ、自分から廃位し追放しておきながら、何故、突然、養父の屋敷に現れたのか。しかも、ソンは廃妃が〝密通〟したとされる相手のハン内官を新たな護衛官に任命した。
 これ以上、無用な誤解を招きたくないため、チェスンは養父にハン内官ではなく別の者を遣わせて欲しいと頼んだが、王命を翻せないとヨクも気は進まないながらも受け入れるしかないと言った。
 ハン内官はチェスンがこの屋敷で暮らすようになって以来、ずっと住み込みで勤務しているものの、チェスンの前に姿を現すことは殆どなかった。とはいえ、名虎に餌を与えているときなどは、近くに彼の気配を感じることもある。そんなときは、ハン内官が近くに控えているのだと判ったけれど、それでも彼は遠巻きに控えているだけだ。
 自分が取った行動がチェスンを窮地に―廃位にまで追い込んでことをハン内官も十分すぎるほど自覚しているに相違なかった。
 ソンはいまだにチェスンとハン内官が想い合っていると誤解しているらしい。それがチェスンにはいちばん辛かった。
 たった三月の間に人が変わったように荒んだ空気を纏い、目許にも険を滲ませていたソンを思い出し、チェスンは切なくなった。
 そんなチェスンを、ヨクは不安げに見ていた。