韓流時代小説 後宮秘帖~親愛主上殿下、どうか聖君に-寵姫からの涙の手紙。若き王知宗は抱きしめてー | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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韓流時代小説 後宮秘帖

 ~逃げた花嫁と王の執着愛~

  第三話  Temptation(誘惑)・前編

 

~こんな私があなたの側にいても良いのですか~

 

-それは「ひとめ惚れ」から始まった初恋だった-

二人が出会ったのは11歳。
王になるべくして生まれた少年と、謀略によってすべてを失い、苛酷な宿命を背負った少女。
孤独な魂を持つ二人は運命に導かれるようにして、出会った。

 様々な試練や障害を前にしながら、互いを想い合うがゆえに、すれ違い傷つき合う若い二人。
 果たして、二人は幼い日に芽生えた初恋を実らせることができるのか?

 

 登場人物
  イ・ソン(李誠)-後の国王・知宗  
  シン・チェスン(申彩順)-後の貞順王后(チョンスンワンフ)

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 あの男と過ごした大切な時間は、今はまだ一人きりで思い出すには、あまりに辛すぎる。いつか思い出しても涙が出なくなるようになるのは、いつのことなのか。今のチェスンには判らない。
「淑媛さま」
 崔尚宮が泣き腫らした真っ赤な眼で、こちらを見ていた。忠義者の彼女は、最後までチェスンに付いてゆくと言ってくれた。でも、チェスンの方から断ったのだ。
 崔尚宮ほどの有能な女性なら、必ず提調尚宮にもなれる。チェスンとて気心の知れた崔尚宮がこれからも側にいてくれれば、心強い。けれど、自分の我が儘のために崔尚宮の後宮女官としての人生を台無しにはできない。
 辛いけれど、これが一番互いのためには良いと思っての決断である。
「今まで本当に良くしてくれて、ありがとう」
 チェスンが心から言えば、崔尚宮はとうとう感極まって声を上げて泣いた。
「あなたがいたからこそ、私は何とか〝淑媛〟しての体面を保てたの。本当にありがとう」
 チェスンは崔尚宮を抱きしめ、本当の母親にするように優しく背を撫でた。
「どこにおりましても、私は淑媛さまのお幸せをお祈りしております」
 泣きながら言う崔尚宮に、チェスンは笑顔で頷いた。
 チェスンの背後から、数人の女官が付いてくる。この者たちがこれからはチェスンと行動を共にするのだ。できれば彼女たちにも迷惑はかけたくないのが本音ではあるが、〝廃妃〟は後宮を出た後は、〝謹慎生活〟を送るのが通例である。お付きの女官たちはいわば、廃妃の監視の役目も兼ねたお目付役でもあるから、これを断ることはできなかった。
 女官を従えて宮殿内を歩いてゆくと、正門前に簡素な女輿が待っていた。
 広い宮殿内のあちこちに、女官たちの小さな集団が見える。彼女たちが皆、一様に自分に向かって深々と頭を下げてくれているのが判り、チェスンは胸が熱くなった。
 男である我が身は、結局は彼女たちを騙したことになる。それでも、〝淑媛〟として精一杯務めようとした姿は、確かに彼女たちにも伝わっていたのだ。
 正門前まできて、チェスンは振り向いた。ソンがいるはずの大殿に向かうと、両手を組んで目の高さに持ち上げ、地面に座って一礼する。また立ち上がると、同じ動作を繰り返す。貴人に対する最上級の敬意を表す拝礼であり、国王たる彼に捧げる最後の真心でもあった。
 チェスンが輿に乗り込むと、心得たように女官が扉を閉めた。屈強な男たちが輿を担ぎ、護衛とこれも監視を兼ねた武官、女官の一団に囲まれ、輿はゆっくりと動き出す。
 輿に乗ったチェスンの膝には、黒い子猫が円くなっていた。名虎の頭を撫でてやると、猫は気持ち良さげに喉を鳴らす。
「とうとう、お前と二人きりになってしまったね」
 人間に話しかけるように言えば、それこそ猫は本当にチェスンの言葉を解するかのように〝ニャン〟と短く啼いた。
 チェスンは袖から薄紫の巾着を取り出し、更に中から簪を出した。輿の小窓から差し込む早春の陽光に、蒼玉が煌めく。ソンから去年の夏、贈られた紫陽花の簪である。一旦は受け取れないと断ったが、夏の終わりに改めて彼の側で生きてゆくと決めた時、貰ったものだ。
 二人にとっての想い出の花、紫陽花がチェスンの手のひらで輝いている。チェスンは、指でそっと花びらにはめ込まれた蒼玉を撫でる。まるで、それが愛しい人であるかように、幾度も優しい手つきで撫でた。
 簪はキラキラと輝いている。チェスンが手のひらで動かす度に、その色合いは微妙に変わる。深い海のような色合いから、清らかなせせらぎのような淡い蒼。
 そう、想い出は色褪せない。この簪のように、彼と過ごしたたくさんの想い出はいつまでもチェスンの心の中で輝き続けるだろう。
 これで良かったのだ。彼の側には、また誰か綺麗な女の人が寄り添い、今度こそ彼は待望の世継ぎを授かり、その女性と幸せになれるに違いない。チェスンにとっては生命を絶つよりも哀しい今日の選択を、心底から良かったのだと思える日が来るはず。
 でも、今はまだ、本当は素直に〝良かった〟とは思えない。
―だって、私はあの方をまだ、こんなにも好きなのだから。
 チェスンは今となってはソンとのたった一つの想い出のよすがとなった簪を握りしめ、頬に押し当て、すすり泣いた。
 
 チェスンが輿に揺られていた同じ時刻、ソンは正門を見晴かす宮殿内の楼閣―最上階にいた。ここからであれば、陰ながらチェスンを見送ってやることができる。
 廃した妃を国王が大っぴらに見送れはしないから、これが精一杯だった。
 今、チェスンを乗せた輿が正門を出た。正門から続く大通りを輿はゆっくりと遠ざかる。正門前の広場には、若い国王の寵愛を一身に集めた美姫をひとめ見ようと、たくさんの野次馬が集まっていた。
 行くなと叫びながら、走ってゆきたい。今すぐに戻ってこいと、あの輿を止めさせたい。
 だが、してはいけないのだ。チェスンを諦められないという未練がましい気持ちに必死で折り合いをつけ、何とか決意したことだ。
 男なら、愛する者の幸せを願ってやるべきだ。ソンは己れに言い聞かせる。
 輿がついに見えなくなり、ソンは堪らず楼閣の階を駆け下りた。そのまま輿を追ってゆきそうになるのを意思の力で別の方に向ける。
 ソンが足を向けたのは、チェスンが暮らしていた殿舎だった。既に無人となった建物の前には、番をする女官も見あたらない。
 つい今朝まで、ここには想い人が暮らしていたとうのに、今は何の痕跡もなくなってしまった。ソンは庭を駆け階を一段飛ばしで上った。
 そのままチェスンが起居していた私室に足を踏み入れる。広い室内はガランとして物音一つしない。それでも、文机も座椅子も、背後の蓮花が描かれた衝立も元の場所にあった。チェスンが暮らしていたときのままだ。
 ソンはふと机の上に縦長の封筒が置かれているのに気づいた。
 〝親愛主上殿下〟と表書きには書かれている。ソンは封を開けるのももどかしく、封筒から薄い紙を取り出した。美しい薄様の紙には
―幾久しくお健やかでいらせられますように。殿下の進まれる道が平らかであることをお祈りしています。伏してお願い申し上げます、どうか聖君となられますように。
 と、記されていた。
 お世辞にも達筆とは言い難い。しかし、心を込めてひと文字ひと文字書かれたのであろう短い文章は、チェスンらしく几帳面に整っていた。
 そういえば、と、ソンは思い出す。崔尚宮がいつか〝淑媛さまには内緒でございますが〟と教えてくれた話があった。
 チェスンが崔尚宮に文字を学んでいるというのだ。チェスンは両班の生まれだが、不幸にして生まれる前に父を失い、実家に仕えていた執事夫婦に育てられた。八百屋の娘として育ったチェスンは、読み書きが得意ではない。ある程度の文字は読めても、書けなかった。
 側室として後宮で暮らすようになってからというもの、無学な身を恥じ、ソンにふさわしい知識と教養を身につけたいと意欲的に読み書きを学び始めたのである。ソンには恥ずかしいから内緒にして欲しいと、チェスンは健気にも崔尚宮に頼み込んでいたという。
 手紙の末尾には、〝申彩順〟と記されている。よくよく見れば、その部分だけ滲んでいた。ソンには、涙を堪えながら自分の名を書くチェスンの姿が見えるようだった。
 可哀想に、どれほどの想いで、この文を書いたのか。
―そなたが初めて俺に書いてくれた文が甘い睦言ではなく、別離を告げる手紙であったとは、何と皮肉なことなのだ。
 ソンの眼からも涙が溢れ、したたり落ちた滴はチェスン自身の零した涙の跡に重なった。
―チェスン!
 ソンは想い人の真心が溢れた手紙を胸に抱きしめた。まるで、その手紙が彼そのものであるかのように。
 逢いたい、今すぐにでも逢いたい。
 心がチェスンを呼んでいる。チェスンを求めて心がこんなにも荒れ狂っている。
 この日、二十三歳の王は、自らの心を殺した。
 ソンは溢れる涙を拭おうともせず、その場にいつまでも座り込んでいた。
 
                                (前編・了)