小説 後宮秘帖~逃げた花嫁と王の執着愛~
第二話 Scandal(醜聞)~風灯祭の夜に~
~こんな私があなたの側にいても良いのですか~
-それは「ひとめ惚れ」から始まった初恋だった-
二人が出会ったのは11歳。
王になるべくして生まれた少年と、謀略によってすべてを失い、苛酷な宿命を背負った少女。
孤独な魂を持つ二人は運命に導かれるようにして、出会った。
様々な試練や障害を前にしながら、互いを想い合うがゆえに、すれ違い傷つき合う若い二人。
果たして、二人は幼い日に芽生えた初恋を実らせることができるのか?
登場人物
イ・ソン(李誠)-後の国王・知宗
シン・チェスン(申彩順)-後の貞順王后(チョンスンワンフ)
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引き寄せた勢いで、ソンは彼女を分厚い褥に押し倒した。逞しい両腕を彼女の両脇につき、上からのしかかる。
「ああ、やっと、そなたを私のものにできるのだな。美しい女」
シュッと音を立てて艶やかなチョゴリの前紐を勢いよく解く。上衣を落とせば、布を幾重にも巻いた豊かな胸が盛り上がっていた。
ソンの顔が妓生に近づく。妓生のいかにも無邪気そうな顔に、抜け目ない狡猾な女の顔が浮かんだ。ソンは気づかないふりで、顔をゆっくりと近づける。
唇が殆ど触れそうに近づいたところで、ふっと動きを止めた。
あっさりと妓生から離れ、大げさに天を仰ぐ。
「ああ、愛しい女、私にはやはり、できそうにない」
寸でのところで交わされた妓生は、惚けたような顔をしている。
「そなたに想い人がいると知りながら、私は無理強いをしたくはないのだ。それでは、手籠めにするのも同じではないか」
花水が歯がみするのも横目で見ていたのだが―、ソンはあくまでも見ていないふりを通す。
「一度だけなら、その方にもバレたりはしませんわ」
「そうか? その男とそなたを巡って色町の目抜き通りで決闘をするのはご免だ。そんな仕儀になれば、恐ろしい女房にすべてを知られてしまう。私は今日、登楼したのを妻に知られるわけにゆかんのだ。何しろ、我が妻の父は領議政ゆえな」
「まあ、旦那さまは領議政さまのご縁戚ですの?」
妓生の声がにわかに熱を帯びた。情人とソン、どちらの男を取るべきか天秤にかけているのは明白だ。どちらの女になった方が得策か、算段しているのだ。ソンには女の心の動きが手に取るように判った。
「領議政さまの娘婿なら、あの方も旦那さまに手出しはできませんわ」
どうやら、応えが出たようである。計算高い女は、情人よりソンを選んだようだ。
「ホウ? それは何故かな?」
畳みかけるように問えば、妓生は妖艶に微笑んだ。
「あの方は義禁府の都事(トサ)にすぎないのですもの。都事さまといえば、羽振りは良いですけど、所詮、下っ端ですわ。領議政さまのご威光には及びません」
「とはいえ、私自身は無位無冠の身だ。私が領議政というわけでもなし」
「それはそうですけど」
花水が鼻白むように言い、それを合図にソンはサッと立ち上がった。
「たとえ客と妓生といえども、馴染みのある女を横から奪うような真似はやはりできない。そなたはその義禁府の都事に真を尽くしてやってくれ」
後には、茫然とする妓生だけが残され、扉を閉める寸前、ソンは女の悔し紛れの叫び声を聞いたのだった。
「何さ、透かした野郎。どうせ醜い女房と舅の機嫌取りばかりしている能なし男の癖に!」
ソンが室を出て少しく後、隣室に待機していたチェスンとジヨンもまた静かに室を出た。
実はソンが一階の大広間でやに下がっている間も、二人は隣の空き部屋で様子を窺っていた。ソンが二階の個室に上がった後は、二人も今度は個室の隣の室に籠もっていたのだ。
ソンが二階から降りてくる。チェスンは複雑な想いで迎えた。あれほど杯を重ねたようには見えず、ほんのりと染めていた目許もはや痕跡もない。
「その、何ていうか、君のご主人はこういう場所に慣れているみたいだね」
ジヨンにすれば悪気はなく、つい口にした言葉だったのだろうが、チェスンは平静ではおられなかった。
うつむくチェスンを見て、ジヨンが慌てて言った。
「いや、ごめん。何か僕、悪いことを言ってしまったみたいだ」
「気にしないで」
チェスンは声が震えないように祈りながら、笑顔で取り繕った。二人のやり取りなど知らぬソンはソンでまた、顔色は冴えなかった。
三人はそれ以上の長居は無用と、早々に妓楼を出て歩き出した。チェスンは人目に立つのを避けるため、今日も男装である。
色町から露店がひしめく大通りへと戻ってきたところで、三人は立ち止まった。
「そなたらも聞いていたと思うが、黒幕は義禁府の都事だ」
後はジヨンに向き直り、続けた。
「鉄は熱いうちに打てともいう。今宵、都事の屋敷に兵を遣わそうう。我々が協力できるのはここまでだ。後は、そなたも大人しく補盗庁から沙汰が出るまで待っていてくれ」
「ありがとうございます」
ジヨンはソンに頭を下げた。
「一つ、お訊ねしても良いですか?」
ジヨンは真剣な面持ちでソンを見た。
「あなたは一体、どういう立場の方なのでしょうか」
身をやつしていても、ソンの圧倒的な存在感は隠せていない。しかも、捕盗庁の兵を動かすだけの力を持つとなれば、ただ者ではないと誰でも気づくだろう。
ソンがニヤリと口角を上げた。
「名乗るほどの者ではない。今回のことは、そなたにもそなたの母御にも心底から詫びる。都の治安と民を守るべき義禁府の都事があろうことか、罪なき女人を殺害した。これもすべて王の不徳の致すところだ」
「まさか、あなたは」
ジヨンの顔色が変わったところで、ソンが笑った。
「そなたのことはチェスンから色々と聞いた。ジヨン、母上を亡くした哀しみがそうそう癒えるものではないとは察するが、哀しみに浸ってばかりいては母上も余計に浮かばれぬ。これよりは学問に勤しんで、一日も早く官僚となるという初志を果たしてはどうだ?」
声もないジヨンに、ソンは頷いた。
「殿試でそなたに逢えるのを楽しみにしている」
殿試とは科挙の最終試験であり、それまでの試験を勝ち抜いてきた受験者が最後に国王の御前で質問を受けるものだ。殿試には国王自らが臨席するのが通例となっている。
「行くぞ」
ソンはチェスンの手を引き、目抜き通りを行き交う人波に消えた。
二人の姿が人波に呑まれ見えなくなっても、ジヨンはまだ放心したように立っていた。
ジヨンと別れた後、ソンはチェスンの手を放そうともせず、足早に歩き続けた。何を考えているのか、ひたすら前方だけを見つめている。途中、らしくもなく、対向から来た中年の両班らしい男と肩がぶつかった。
「天下の往来を何をぼんやりと歩いているのだ。気を付けたまえ」
買い物の帰り道か、大荷物を担いだ下僕を連れたその男は横柄に言い放ち、肩をそびやかして去っていった。
「旦那さま(ソバニム)」
チェスンは遠慮がちに声をかけた。
ソンがハッとした表情でチェスンを見下ろす。
「ああ、済まぬ、何か言ったか?」
やはり、様子が変だ。チェスンはつい先刻、自分がジヨンの指摘に動揺したのも忘れ果てて心配になった。
「大丈夫ですか?」
これしか言いようのない我が身がもどかしい。もっとソンの心を宥められる言葉があれば良いのにと思う。
殺人事件の真犯人は、何と義禁府の役人であった。そのことに、ソンが大きな打撃を受けているのは明かだ。
ソンはしばらく虚ろな視線をさまよわせていたが、やがて、ホウッと息を吐いた。
「まったく情けない話だな」
迂闊に相づちは打てない。だが、ソンは端から返答は期待していなかったようで、憑かれたようにしゃべり続けた。
「世も末ではないか」
ややあって、はき出すように言った。
「俺のせいだ。俺が王として不徳ゆえ、こんな不祥事が起きたとしか思えない」
「あなたのせいではありません」
だが、チェスンの言葉は耳に入らないようで、ソンがやるせなげに呟き首を振る。
「本来なら王命によって罪人を捕らえ裁く正義の場所であるはずなのに、その義禁府の都事が罪なき女を殺すとは、あってはならないことだ。道理で手練れの仕業だったはずだ。都事であれば、かなりの使い手であったのは間違いなく、背後からひと突きで女の生命を止めるのも造作はなかったはず」
ソンが絶望的な声で言った。
「まさか玄人の殺し屋ではなく義禁府の役人であったとは。この国は何がどうなっている!」
握りしめた拳も、怒りが滲んだ口調もすべてが痛々しかった。
あまりに力を込めすぎたせいか、開いた手のひらに薄く血が滲んでいる。
「血が出ています」
チェスンは愕き、ソンの手を取った。自分の上衣の袖をわずかに破り、布で丁寧に手を巻く。
「宮殿に戻ったら、ちゃんと手当をしましょうね」
「チェスン」
ソンの瞳が揺れている。大好きな男が今、これ以上ないというほど傷ついているのが判った。
「殿下は偉大な君主であらせられます」
「いや、俺は」
言いかけたソンに、チェスンは怖い顔をした。
「黙って最後まで話を聞いて下さい」
「でも、どれほど偉大な君主であろうと、この広い朝鮮国のすべてを見晴るかすことはできません。いつ、どこが何が起きているか、すべてを知ることは無理です。ジヨンの母君のことは痛ましい出来事でしたし、残念です。ですが、それは殿下のせいではありません。畏れながら、歴代のどの王の御世であっても、防げない哀しい事件でした」
チェスンは深呼吸して、慎重に言葉を選んだ。
「殿下は、この事件をご自分のせいだとご自身を責められています。更に、ジヨンやジヨンの母上の哀しみをご自分のもののように真摯に受け止められている。この慈悲深い御心こそが、王にとっては何より必要なものだと思います。殿下がその優しさをこの国の民に注ぎ続ける限り、我が国は大丈夫です」
「そう、なのだろうか。そんな風に考えてみたこともなかったが」
呟いたソンに、チェスンは大きく頷いた。
「私は、そのように考えます。いつかも申し上げました。王だとて人間です、神さまではないのですから、すべてを見通して何一つ誤りなきようにするのは不可能なのではありませんか?」
「―チェスン。そなたが俺の側にいてくれて、良かった。これからもずっと、こんな弱い男の側にいてくれるか?」
「何度でも申し上げます。私はずっと殿下のお側にいます」
王の想い人は清々しいほどの笑顔で頷いた。その屈託ない表情は、ソンに十一年前のチェスンとの出会いの日を思わせた。
あの日も、どう見ても美少女にしか見えない彼は、まるで舞い降りるかのように彼の前に現れたのだ。
そして、まだ幼かった王は、彼に恋をした。一生かかっても色褪せることのない烈しい恋を。