私を騙して連れ出した貴男を好きになった。【駆け落ち】から始まった恋は本物になったのよ 小説氷華 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
小説がメイン(のつもり)ですが、そのほかにもお好みの記事があれば嬉しいです。どうぞごゆっくりご覧下さいませ。

小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~

 

あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。

 

 

「娘、話すが良い。さりながら、下らぬ話を致せば、即刻、首をはねるぞ」
 サヨンの全身に緊張感が漲る。
「お話をお聞き下さり、ありがとうございます」
「そなたの話とやらを聞こうではないか。さあ、聞かせてくれ」
 サヨンは頷いた。ともすれば、声が震えそうになるが、何とか普通に聞こえるように最大限の努力を払った。
「明日、大君さまが必要とされる物をこちらに持参致してございます」
「私が必要なもの?」
 わざと知らないふりをしている―。サヨンは唇を噛みしめ、膝の上の握り合わせた拳に力を込めた。
「草鞋にございます」
 ずばりと言った。このまま押し問答を続けても意味がないと思ったからだ。
「なにゆえ、私が草鞋を必要としていると思ったのだ?」
「それを今、この場で申し上げてもよろしいのでしょうか?」
 窺うように見ると、大君の表情がかすかに動いた。
「そなた、明日の計画について、どれだけ知っている?」
「そのご質問にお返しするべき言葉を私は持ちません。商人はお客さまにご必要なものを必要とされるだけご提供するのが務め、余計なことには一切拘わらず、また外には洩らさず知らぬふりをするのが鉄則にございますゆえ」
 サヨンが恭しく応えると、大君がホウと小さな息を洩らした。
「良かろう、そなたの草鞋を買おう。数はいかほどある?」
「ざっと見積もっても二千、或いはそれ以上はあるかと」
 大君が傍らの清勇を一瞥する。
「草鞋は揃ったのか?」
「はい、あ、いいえッ、まだ必要数の三分の二ほどまでにて」
 大君が舌打ちを聞かせた。
「使えぬ奴だ」
「近隣の町村の履き物屋から買い上げようにも、あまり派手に買い占めては目立ちます。人眼につくのは今、できるだけ避けた方がよろしいかと思いまして」
 言い訳に四苦八苦する清勇には頓着せず、大君は重々しく頷いた。
「二千もあれば上等だ。して、そちらの望みは?」
 サヨンが希望を応えると、大君は眉一つ動かさず頷いた。
「良かろう。そなたの望みどおりの黄金を遣わす。清勇、後はそなたに任せたぞ。申しておくが、これは私の体面にも関わることだ。万が一、娘を始末しようとしたり、黄金を支払わなかったりしたら、その貧相な頭が身体と真っ二つに離れる―、さように心得よ」
 大君は清勇の狡猾で残忍な気性をよく見抜いているようであった。
「ははっ」
 釘を刺された清勇は一瞬悔しげに顔を歪めたものの、慇懃に頭を下げる。
「して、肝心の草鞋は?」
 問われ、サヨンは婉然と微笑んだ。
「お屋敷の外にて私の良人が待機しておりますれば、そこにすべてございます。先に黄金を頂きましたれば、すぐにでも、耳を揃えてお渡し致しまする」
「―」
 大君が虚を突かれたように眼を見開き、それから愉快そうに声を上げて笑った。
「なるほど、確かに、そなたは骨の髄からの計算高い商人らしいな」
 室を出た刹那、サヨンは身体中の力が抜け、放心状態になった。よくぞ義承大君ほどの大物を相手にここまで対等に渡り合えたものよ―、自分でもいまだに狐につままれているか、夢を見ているようだ。
 大君と話している間は、まるで自分ではない別の誰かが喋っているようで、自分の身体なのに別の者が乗り移っているような感覚が続いていた。
 サヨンがいなくなった後、義承大君は唸った。
「たいした女だ。度胸の据わり方が並大抵ではない。もしあれが男であれば、私が王になったら、是非側近として召し抱えたいくらいだ」
 その口調には明らかに感に堪えぬ様子が窺える。清勇は大君におもねるように応える。
「あの美貌なら、側近よりは側室としてお迎えになっては? さぞ大君さまをご満足させることでしょう」
「そなたには、あの娘の真の価値が見えぬのか。もし、こたびの計画が失敗したとすれば、私の不幸は、あのような者が側にいなかったことであろうな」
 大君はただ静かに笑っているだけで、清勇の言葉には耳を貸そうともしなかった。

 

 サヨンは痛いくらいの父の視線を感じ、顔を上げることもできなかった。傍らに端座したトンジュもいつになく緊張した面持ちである。
 義承大君にすべての草鞋を買い取って貰った後、サヨンは望みどおり―実際には提示した額よりも更に多く上乗せられていた―の黄金を手にすることができた。
 サヨンは約束どおり、黄金の三分の一を履き物屋の主人に渡し、更に、大君が上乗せしてくれた分までをも付けた。それだけあれば、草鞋を出してくれた他の店に支払った後、幾らかでも手許に残るはずである。
 四月の半ば、山にも遅い春がめぐってきた。山桜の薄紅色が山をほんのりと彩る季節に、サヨンは三ヶ月暮らした山を離れ、トンジュと共に都に帰ってきた。
 コ・ヨンセは盛大な溜息をついた。
「み月もの間、なしのつぶてだったそなたがいきなり帰ってきたときは、夢を見ているのではないかと思ったぞ。そなたがいなくなってからひと月、都中を探し回ったというのに、何の手がかりも掴めなかったのだからな。頼むから、この父の心臓を止めるような真似はせんでくれ」
「ごめんなさい。本当にお父さまにはご心配ばかりかけてしまいました」
 サヨンは殊勝に頭を下げる。実のところ、帰ってきたものの、父に逢って貰えるとは思えなかった。門前払いを食らわされるのが関の山だと覚悟はしていたのだ。
 トンジュと父が対面する前に、サヨンは父と二人だけで一刻ほど話していた。
「心配したのはまだ良い。親が子の心配をするのは当たり前ゆえな。さりながら他人さまに迷惑をかけるのだけはいけないぞ。そなたが愚かにもしでかしたことが、どれだけの人に影響を及ぼしたかは理解しておるのであろうな」
「申し訳ございません。大行首さま、サヨン―いえ、お嬢さまを責めないで下さい。すべては俺が仕組んだことです。嫌がるお嬢さまを無理にお屋敷から連れ出したのは俺ですから」
 トンジュは頭を額にこすりつけた。
「あなた、止めて。そんなことを言い出すなんて、一体どういうつもりなの?」
 サヨンは顔色を変えた。二人で大行首に謝ろうと話し合ってはいても、父を怒らせて二人が引き裂かれるようなことになるような言動だけは慎もうと約束していたのだ。
 最初、都に二人で帰りたいのだとサヨンが言い出した時、トンジュは特に反対はしなかった。
―このままでは、やはりいけないと思うの。都に戻ってお父さまにちゃんと私たちのことを認めて貰って、そこから改めて出発してみない?
 トンジュを愛しているからこそ、世にも認められた夫婦となりたかった。サヨンを連れ出すことで、トンジュは未来を失った。サヨンは彼に陽の当たる道を歩かせてあげたいと願ったのだ。トンジュという男は、山奥に埋もれさせてしまうには惜しい才覚を持っている。
 これは大きな賭であった。特にトンジュにとっては。大行首がトンジュを許さなければ、彼は生命を失う危険すらあった。それでも、彼は故郷に帰りたいと願う妻の心を思いやり、身の危険を覚悟でサヨンと共に都に帰ってきたのである。
 トンジュは、サヨンを連れ出す際には、戻った娘を大行首が寛容に迎えるのではないかと言ったが、あれはあくまでも、サヨンをその気にさせるためであった。
 彼自身、二人がおめおめと都に舞い戻ったからといって、何事もなく―特にトンジュは―無事に済むとは考えていなかった。
「大行首さま、俺はどうなっても構いません。使用人の身で主家のお嬢さまを攫い、み月もの間、連れ回した罪がどれほどのものかは判っております。どうかお嬢さまだけは、このまま何事もなかったように迎えて差し上げて下さいませんか? 俺は鞭打たれるなり、生命を奪われるなり、相応の処罰を受ける覚悟はできています」
 トンジュはサヨンには構わず、ヨンセを真っすぐに見つめた。
「お願いだから、止めて。あなたを失って、私にどうやって生きてゆけと言うの? お父さまにこんなことを言はずではなかったでしょ」
 サヨンが悲鳴のような声で言った。
 トンジュに取り縋って泣く娘を、ヨンセは苦い薬でも飲んだような表情で眺めていた。
「どうやら、サヨンからトンジュに連れていって欲しいとせがんだのは嘘ではないらしいな」
「いえ、大行首さま、それは違います。躊躇うお嬢さまを唆したのは、この俺で―」
「黙りなさい」
 ヨンセがトンジュを一喝した。
「たとえ真実がどこにあれ、結果としてこうなったのだ。トンジュ、人は時には真実や過程よりも結果を重んじねばならない。すべてが丸くおさまるように考えることが肝要なのだ」