私が帰る場所はこの世に一つしかない。それは、貴方の側だけよ 小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~

 

あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。

 

  

 

 

 せいぜいが何百足程度のものだろうと思っていたのだ。まさか、千足単位の草鞋が出てくるとは予想だにしなかった。
「もちろん、お約束どおり、私たちが得た三分の一のお金はお支払いしますが、買い手側が幾ら支払ってくれるかも判らない状況では、これだけの草鞋代が貰えるかどうか確約はできません。ご主人もまた後で、他の履き物屋さんたちに草鞋の代金を払わなければならないでしょう。最悪、他の店に支払いを済ませたら、ご主人の取り分はなくなってしまうかもしれない」
 主人は肉に埋もれた細い眼を更に細めた。
「良いさ、これは儂がよくよく考えて決めたことだ。たとえ取り分がなくなっちまったからといって、お前さんらに文句は言わない」
 サヨンは控えめに問うた。
「何故、私たちにそこまでして下さるのですか? 商人は儲けられる見込みがない商売はしないものなのに」
 主人が笑顔で首を振った。
「確かにお前さんの言うとおりだが、お前さんは一つだけ忘れていることがある。儲けだけを追求していては、信頼を得ることはできない。人の心、客の信頼を得てこそ、初めて本当の商いができるんだよ」
 主人は上唇を舐め舐め言った。
「儂は苦しむ母親の姿を長年、見てきた。この病が本当に治るものなら、どれだけ金を積んでも構やしないと幾度思ったかしれない。お前さんは儂に儲け三分の一の金と一緒にお袋の病をも治してやると言った。あのときのお前さんの言葉が儂の心を動かしたんだ」
「ご主人」
 サヨンの胸に熱いものが込み上げた。
―商談を決めるときには、八割が誠意をもって引き受けた仕事を全うしようという真心と義務感でなければならない。
 ふいに、父の教えが耳奥でありありと甦った。 
 もしかしたら、履き物屋の主人にサヨンの誠意と真心が通じたのだろうか。これが、父の言っていたことなのだろうか。
―商売の道は奥深いものだ。己れの利だけを追い求めるような商売はけして人の心を得られないし、長続きはしない。長い眼で見れば、利よりも信頼を得るのを優先させた方が結果として、より大きな利に繋がるものだよ。
 それが父の口癖だった。その時、サヨンは商人として大切なことを学んだような気がした。
 主人は優しい眼でサヨンを見た。
「あの時、お前さんが儂の眼の前にただ金を積むことだけを主張したなら、儂はけしてこ町中の草鞋を集めようとは思わなかった。これしきのこと、お安いご用だ。その代わり、約束は必ず守って貰うぞ」
 主人の視線がサヨンからトンジュに移った。
「そっちが例の薬草の知識とやらを持っている人かい? 何でも名医も匙を投げた重病人を助けたとかいう人だね?」
  トンジュが眼を剥いてサヨンを見る。
―おい、適当なことを言うんじゃないぞ。口から出任せを言って、病人が俺の手に負えなかったら、どうするつもりだ。
 トンジュの眼は明らかに彼の焦りを示していた。サヨンは彼のきつい視線を無視して、にこやかに笑った。
「ありがとうございます。ご主人のご厚意に報いられるよう、全力を尽くします。もちろん、良人もそのつもりでおりますので、ご安心下さい。ねえ、あなた(ヨボ)?」
 サヨンが目配せをしながらトンジュを見る。トンジュは最早、何も言えず、ただ〝うう〟とも〝ああ〟とも知れぬ応えを返しただけだった。
 この後で、トンジュは早速、主人の母親を診るために病室へ案内された。ちなみに、トンジュの診立てでは、履き物屋の老母は、腎―つまり腎臓に病因があるとのことだった。それを裏付けるかのように、トンジュが診た老母の身体は全体的にむくみが目立ち、殊に脚のむくみは酷かった。
 トンジュは、むくみを取る薬、尿の出をよくする薬、更に病で弱った身体に体力をつけ、滋養を与える薬の三種類を処方して与えた。後に、この老婦人は嘘のように回復し、身体中の浮腫も取れ、寝たきりだったのが起きて歩けるようになるまで回復した。
 母親が数年ぶりに床から出て歩いた日、履き物屋の主人は涙を流して拝むように手をすり合わせた―。

 夜になった。陽がとっぷり暮れた頃、サヨンは今度は沈清勇の屋敷に向かった。三日前の夜、二人は確かに〝三日後に決行する〟と言っていた。ならば、決行は明日、義承大君はその日に備えて今夜も清勇の屋敷にいる可能性が高いと読んでいた。
 もとより、門から入っていって取り次ぎを頼んでも、逢えるはずはないと判っている。サヨンはトンジュには門前の目立たない場所に待機して貰い、単身、屋敷に乗り込んだ。
 塀を越えて敷地内に侵入し、広い庭を慎重に横切って例の離れに向かう。三日前の夜、サヨンが監禁されていた場所でもあり、沈清勇と義承大君が密談を重ねていた場所でもあった。
 自分の身の丈よりもはるかに高い塀を乗り越えながら、サヨンはしみじみと思った、自分はたった二ヶ月余りで何と変わったのだろう。トンジュと逃げるために屋敷を出るときは、これよりも低い塀ですら一人では乗り越えられなかったのに。
 確かに彼女は変わった。もう、世間知らずで一人では何もできなかった怯えてばかりの少女いない。いや、元々、彼女の中に強くて運命に敢然と立ち向かってゆく、したかなもう一人のサヨンが潜んでいたのだ。そして、彼女から新たな可能性を引き出したのは他ならぬトンジュであった。
 淡い闇の中で、離れが闇よりも更に濃く黒い影となって背景に溶け込んでいる。ここからでは明かりがついているのかは判別できず、サヨンはそっと正面の階から中へと身をすべらせた。
 記憶を辿りながら長い廊下をひた歩いていると、やがて見憶えのある室の前に至った。思ったとおり、室からは淡い明かりが洩れている。
 決行の前夜ともなれば、屋敷や庭内にも用心のために兵士がひそかに配備されているかと危ぶんでいたのだが、幸いにも兵士らしい姿は見当たらなかった。誰にも知られずに隠密裡に戦に必要な人員を確保するのは困難なことだ。だとすれば、屋敷の警備に割く兵士の余裕などないのかもしれない。
 三日前、サヨンは義承大君の顔を見ることはなかった。だが、これから対面することになる。たかたが十九歳の小娘が国王の弟と堂々と渡り合えるだろうか。
 サヨンの胸の鼓動が大きくなった。心ノ臓が口から飛び出るのではないかというほど烈しく打っている。
「お話し中、失礼いたします」
 扉を開け、すべるように身を躍り込ませたサヨンを、義承大君と清勇は呆気に取られて見つめた。
 サヨンは、両手を組み合わせ眼の高さに掲げて立った。それから座って頭を下げる。更にもう一度立ち上がり、深々と礼をした。目上の者に対する最上級の敬意を表す拝礼である。
「お初に御意を得ます」
「な、何だ、この娘は」
 義承大君よりも沈清勇の方が動揺し、騒ぎ始めた。
 サヨンは、大いに狼狽える清勇の方ではなく、正面の義承大君の方に向き直った。
「貴様、ここをどこだと思っている! このお方がどなたかを心得ておるのかッ」
 清勇は口から唾を飛ばしてサヨンを恫喝した。しかし、サヨンは清勇には一切、取り合わず座ったまま頭を下げた。
「国王さまの弟君義承大君であらせられます」
 義承大君は見たところ、三十代半ばくらい。清勇と同様、義承大君も特に戦衣装に身を包んではおらず、薄紫の高級そうなパジチョゴリに帽子を被っている。
 鶯色の座椅子(ポリヨ)にゆったりと座り、墨絵の蓮花が大胆に描かれた屏風を背にして座っている。流石に清勇のような小者と違い、その場の空気を変えるような威圧感を全身から放っていた。
 大君は値踏みをするように感情の読み取れぬ眼でサヨンを見つめている。サヨンを射竦める鋭い眼光に、身がすくみそうになるが、必死で気力を奮い立たせた。
「大君さま、私のお話を聞いて頂きたいのです」
 いきなり切り出したサヨンを、清勇が気違いでも見るような眼で見た。
「話にならん。お前のような者が一体、大君さまに何の話があるというのだ! ええい、誰かいるか、この怪しい娘をつまみ出せ」
 清勇が喚くと、すぐに扉が開いて、屈強な男が顔を覗かせた。やはり、呼べばすぐに来られる場所に人を配置しているのだ。間違いなく決行は明日だ。サヨンは確信を深めた。
「この女を連れてゆけ」
 清勇が顎をしゃくり、サヨンは現れた大男に腕を掴まれた。そのまま強引に引き立てられてゆこうとされ、大声で叫ぶ。
「お願いです、話だけでも聞いて下さい。大切な明日という日のためには是非とも必要な話です」
 わざと〝明日〟に力を込めて発音した。
 大君がスと片手を上げる。
「待て、話くらいは聞いてやろうではないか」
「しかし―」
 大君にギロリと睨まれるやいなや、清勇は渋々口をつぐんだ。〝そなたは下がっておれ〟、清勇に言われ、大男はサヨンを放し、静かに部屋を出ていった。