彼の赤ちゃんが欲しい―あれほど彼を拒んだのが嘘みたいな私だったが― 小説氷華~恋は駆け落ちから始 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~

 

あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。

 

 

 三月下旬、サヨンは一人で山を下りた。トンジュが怪我をしたからだ。森に出て狩りをしている真っ最中に猪に襲われたのだ。トンジュが森に出かけるのは毎日のことゆえ、特に心配はしていなかったら、夕刻、血まみれになって帰ってきたトンジュを見たときは心臓が止まるかと思った。
 何しろ、扉を開けたときの彼ときたら、着ているパジが胸から腹部にかけて鮮血に染まっていた。サヨンが生きた心地もしなかったのも無理はない。
 幸い、見た目よりは傷は浅かった。トンジュは薬草に関しては高度の知識を有している。今や幻の村に代々伝えられてきた薬草の秘伝を知り、その処方ができるのはトンジュだけであった。トンジュの指示を仰ぎながら、サヨンは教えられたとおりに彼が取り置いた薬草を調合した。
 塗り薬は傷口に塗って包帯を巻き、飲み薬は煎じて飲ませた。怪我をした翌日からは高熱が続き、一時はどうなるかと案じたほどだった。が、流石にトンジュ自身の処方だけあって、薬は確実に効いた。もちろん、十八歳という若さが早い回復に繋がったともいえるだろう。六日めには熱も下がり、十日めには床から出て普通の暮らしに戻った。
 そうはいっても、まだ無理はさせられない。トンジュは大丈夫だと言い張るが、折角塞がりかけている傷口が開きでもしたら一大事である。そこで、サヨンがトンジュの代わりとして薬草を売りに町まで行くことになったのだ。
 トンジュは病み上がりの我が身よりもサヨンの身をしきりに案じた。食糧にせよ何にせよ、ひと月分くらいの蓄えはある―と、直前までサヨンに思いとどまるように言った。
 だが、サヨンの目的は薬草を売ることだけではなかった。折角、仕上がった刺繍入りの巾着を小間物屋に持っていって売り物になるかどうか見て貰おうと考えていたのである。
 むろん、トンジュにはそのことも正直に打ち明けた。
 山を下り、山茶花村を通り過ぎて町に着いたときには、既に昼前になっていた。サヨンは休む暇もなくトンジュがいつも薬草を卸している薬屋を訪ねた。
 薬屋の主人は五十年配の小柄な、いかにも人の好さそうな赤ら顔の男だった。
「うへえ、あの若さで所帯持ちとは聞いていたけど、こいつア、たまげた。えらい美人の嫁さんだなぁ」
 薬屋は町の目抜き通りに露店を出していた。お世辞にしては随分と大仰に愕き騒いでいる店主に薬草を渡し、その分の代金を貰う。そのお金で今度は様々な店を覗いて、生活に必要な物、足りない物を買ってくるのだ。
 薬屋の主人に丁重に挨拶した後、色々と店を見て回った。その中の一つに木彫りの細工品を扱う店があった。むろん、軒を並べた露店である。しかし、店先に並んだ様々な品は安価な割には品も良く、サヨンは温もりのある木肌の手触りが気に入った。
 聞けば、これらの品々はすべて店の主自らが一つ一つ手作りしたものだという。
「安くしとくから、どう?」
 と、商売上手らしい主人の女房に言われ、つい買ってしまった。サヨンが女房から品物の包みを渡されるときも、主人はむっつりと煙草をふかしているだけだった。
「うちの人って、本当に愛想なしでしょ。あの人に店を任せといたら、一日も商売が続かないから、あたしがこうやって、お客さんの応対をしてるの」
 サヨンが求めたのは木彫りの人形であった。鴛鴦(おしどり)を象っており、雌と雄で一対になっている。昔から鴛鴦は夫婦円満の象徴で、婚礼には必ず用意する縁起物でもあった。
「お前さん、もしかして、新婚?」
 喋り好き(いささか喋りすぎの感がないでもない)の女房は鴛鴦を買ったサヨンに問うてきた。
 まあ一応、そういうことにもなるのかと曖昧に頷いたら、おまけだといって猿のようなよく判らない小さな置物までくれた。
「これは子宝を授かるおまじない。あたしの娘のところもなかなか子どもができなくてさ、亭主の作ったこれと同じものをやったら、あんたそれが授かったんだよ。しかも男の子。二番目ももうじき生まれるんで、効き目はあると思うね。これはお買い得じゃなくて貰って損はないよ」
 〝はあ〟とも何とも返事のしようがないサヨンと朗らかに喋る女房を良人が煙草をふかしながらギロリと睨んでくる。
「いけない、また喋りすぎちまったみたいだ」
 女房がちろりと舌を出す。
「それじゃあ、私はこれで失礼します」
 サヨンはそそくさとその場を離れた。
 鴛鴦の置物を見た途端、欲しくなった理由は他でもなかった。トンジュと自分はまだ祝言らしいものを挙げていなかったからだ。これを見せたら、トンジュは何と言うだろうか。
 余計なものを買ったと怒るのだろうか、それとも、優しい笑顔を見せてくれるだろうか。
 あの猿の置物は―。そこでサヨンは首を振った。駄目だ、見せられない。子宝を授けるおまじいかどうかは知らないけれど、これは何だとトンジュに訊かれて応えるのは恥ずかしい。
 子ども、子ども、と、サヨンは考えた。これまで自分が誰かの妻となり子を産むなんて、考えたこともなかった。でも、考えてみれば、男と女が祝言を挙げて床を共にするようになれば、子どもは生まれる。
 そこで、サヨンはハッとして、紅くなり蒼くなった。もしかして、もしかして、自分自身にもその可能性はあるのだろうか―? 半月前、トンジュはサヨンを幾度も抱いた。あの時、新しい生命が自分の胎内に宿ったかもしれないのだ。
 とても不思議な気分であったが、嫌だとは少しも思わなかった。むしろ、心のどこかでは、そうなっていて欲しいと願う自分がいた。トンジュによく似た愛らしい男の子を腕に抱いている自分というものを思い描くのは愉しかった。
 そして何より、トンジュの子どもを生んでみたいと願っている自分自身にサヨンは愕いていた。
 鴛鴦と猿の置物を後生大切に持ち、次に向かったのは小間物屋である。小間物屋の主人はまだ若い―トンジュと同じくらいだった。すごぶる美男で、陽に透けるような茶褐色の髪と色素の薄い榛色の瞳、それに彫りの深い彫刻のような美貌は朝鮮人には珍しい。
 当人は自分を見る他人の視線には馴れているようで、
「俺のお袋は異様人だったんだ」
 と事もなげに言っていた。名前も光王(カンワン)ときらきらしい美貌にふさわしい派手なものだ。
 女には手が早いことでは有名らしく、光王の隣に店を出している鶏肉屋のおじさんに言わせると、
「あんたも気をつけなよ。こいつは襁褓をした赤ん坊であろうが腰の曲がった婆さんだろうが、女なら誰でも良いんだから」
 ということらしい。
「何だよ、酷い言い草だなぁ。それじゃ、俺が正真正銘の女たらしみたいじゃないか」
「そうじゃなかったのか?」
 嘆く光王に、鶏肉屋の主人が平然と言ってている。
「うちの娘にちょっかい出そうとしただろうが」
「あれは俺が手を出したんじゃないぞ。おじさん(アデユツシ)ちの娘が色目を使ってきたんだ」
「お前が誰にでも思わせぶりな態度を取るのが悪いんだ! お前と話してたら、女は皆、その気になる」
 二人はまだ懲りずにやり合っている。
 光王は見た目は良い加減だが、商人としてはきっちりとしていた。サヨンの縫った刺繍入り巾着を検分し、〝これなら十分売り物になる〟と請け負ってくれた。その場ですぐに値段交渉も成立して、賃金まで貰った。
 これからは良人が月に一度、薬草を卸しにくる際、ついでに仕上がった巾着を光王に届けにくるだろうと言うと、光王は心底残念そうな顔をした。
「残念だなぁ、サヨンのような良い女がもう人妻だなんて」
 どこまでが本気か判らない台詞を溜息混じりに口にする。
「旦那と喧嘩したら、俺のところに来いよ。泊まる場所くらいあるからさ」
 帰り際、呑気に声をかけてくる光王を鶏肉屋が呆れ顔で見ていた。
 その場所から二つ、三つの店を隔てた履き物屋と筆屋では、履き物屋の主人と筆屋の女房が商売もそっちのけで口角泡飛ばして話し込んでいる。サヨンは筆屋の前で足を止め、しばし迷った。巾着が思ったよりも高く売れたので、トンジュに良質な筆を買い求めて帰りたかったのだ。
 が、今日はあちこちに寄ったため、時間も予定よりは遅れている。山で一人待っているトンジュのことを考えると、一刻でも早く帰りたい。筆をゆっくりと選ぶのは、次回に延ばすことにした。
 当座に必要な食糧も買い揃え、念願の巾着も売れた。後は山に帰るだけだ。サヨンは食料品を詰め込んだ袋をよっこらしょと背負い、歩き出した。大荷物だから時間はかかるだろうが、今から帰途につけば、陽暮れ刻にはトンジュの待つ我が家に帰れるだろう。
 我が家、サヨンは思った。トンジュと共に都を出てから、何度も彼から逃げようとしたり、彼の一途な恋情を拒んだ。だが、自分はやはり、トンジュを愛している。
 いつのまにか、あの男はサヨンの心に入り込み、しっかりとその存在を刻みつけていたのだ。最早、サヨンの帰るべき場所は山の上のあの小さな家―トンジュの側にしかなかった。