あなたが好き―今、やっと自分の心に気づいたの、意地っ張りの私を奥さんにしてくれる? 小説 氷華 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~

あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。

 

 

 逃げようと手を差し出されてトンジュの手を取った時、胸が時めき、彼の手が触れた箇所から得体の知れない妖しい感覚が駆け抜けた。今から思えば、あの未知の感覚こそが男に抱かれたときに女が感じる〝快さ〟に近いものだったのだ。
 あの頃から、自分はトンジュに少しずつ惹かれていたのかもしれなかった。だが、今となっては、どうしようもないように思える。
 サヨンは〝好きだ〟と繰り返す彼の想いを受け取らなかった。身体を幾度も重ねた後でさえ、サヨンの方から背を向けたのだ。
―考えてみたら、俺が大行首さまに難しい文字を教えて頂いたのも、サヨンにふさわしい男になりたいと思ったからだろうな。でも、俺の見た夢は結局、分不相応だった。幾ら立派になろうとしても、住む世界は変えられない。近頃、そんなことを考えるようになったよ。
 今朝の河原からの帰り道、トンジュが洩らした言葉が何より今の彼の気持ち―心境の変化を物語っている。
 トンジュは最早、サヨンへの気持ちに見切りをつけたのだろうか。いつまでも頑なな女を求め続けることに疲れてしまったのかもしれない。
 自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか―。それがどれほど大切なものか知らず、気がついたときには失っていた。あまりにも愚かで哀しい失敗だ。サヨンは暗澹とした気持ちになった。自己嫌悪の塊になりそうだ。
 想いに耽っていると、人の気配がした。
 散歩に出かけると言って出ていったトンジュが帰ってきたらしい。顔を上げると、物言いたげなトンジュと視線が合った。
「お帰りなさい。ゆっくりとできた?」
「ああ、梅が見頃でね。いつかサヨンにも見せてやりたいと話していたろう? 梅林が見事な場所があるんだよ。今夜はそこまで行ってきたんだ。丁度今が満開だ。月に梅が照らされて、本当にきれいだった。絵心のない俺でも筆を持って描いてみたいと思うほどだ」
 トンジュは懐からさっと何かを出すと、眼の前で振って見せた。
「一輪だけ貰ってきた」
「可愛い花ね」
 サヨンは微笑んだ。薄紅色の小さな花をいくつかつけた細い枝を見つめる。トンジュはその枝をサヨンの髪に挿した。
「これは良い子で留守番をしていたサヨンへのおみやげだ」
「ありがとう。でも、トンジュってば、相変わらず私を子ども扱いするのね」

 


 トンジュが少し笑った。
「サヨンは金を出して買ったものより、こういう素朴なものの方を歓ぶんではないかと思ったんだ」
「ごめんなさい。別にあなたから頂いた簪が気に入らないわけではないのよ」
 トンジュも微笑み返してきた。
「別に気にしなくて良いんだよ。嫌いな男からあんなものを贈られて、身につける気にならないのは当然だからね」
「トンジュ、私はそういうつもりでは―」
 いいかけるサヨンを遮り、トンジュは突如としてサヨンの傍らに置いてあった巾着を手にした。
「俺が買ってきた絹布で作ったのか?」
 薄桃色の巾着を手で弄びながら言う。
「そうよ。これくらいの大きさだとたくさん作れるから、一度に済ませてしまったわ。刺繍もしてみようかと思ってるの」
 梅の刺繍は既に半分以上は仕上がっている。トンジュは、なおも巾着を見つめている。大きな手のひらにちょこんと乗った巾着は随分と小さく見えた。
「見事なものだ」
 褒められて、少しくすぐったいような気持ちになった。
「珍しいのね。褒めてくれるなんて」
 サヨンの言葉に、トンジュは意外そうにまたたきした。
「そうか?」
 しばらく間があった。トンジュは人差し指で巾着に咲いた白梅をなぞっている。
「その梅ね。家の前にある梅の樹を思い出して作ったのよ」
 初めてここに連れてこられた日、絶望に覆われていたサヨンの心を慰めてくれたのが、あの白い梅の花であった。早咲きだったため、もう既に花は散ってしまったけれど。
 返事がなかったので、サヨンは顔を上げ、トンジュを見た。と、こちらをじいっと見つめる彼の視線と視線がぶつかった。
 思わず頬が染まるのを意識しながら、サヨンは視線を逸らした。どうも、朝の出来事以来、トンジュを必要以上に意識してしまうようである。
 しかし、視線を逸らしたサヨンを見た彼が辛そうに眼を伏せるのには気づかなかった。
「そんなにやってみたいのなら、やってみれば良い」
 え、と、サヨンが愕きに眼を見開いた。
「本当?」
「本当だよ」
 トンジュがつとサヨンの手を取った。自分の手のひらに乗せたサヨンの小さな手を指で撫でる。
「可哀想に、ここに来てからまだ二ヶ月ほどだというのに、こんなに荒れてしまった」
 サヨンは微笑んだ。
「たいしたことないわ。心配しないで」
「サヨン、俺はお前に余計な苦労をさせたくなかった。お前が今まで労働などろくにしたことがなかったのを俺はよく知っている。髪飾りを俺の手首に結んでくれたときのお前の手は、こんなに荒れてはいなかった。刺繍を町で売りたいとお前が言い出した時、反対したのは、そういう理由もあった」
 綺麗なサヨンの手を汚したくなかったんだ。
 最後の呟きは、囁くように落とされた。
「刺繍くらいで手は荒れないわ」
 トンジュの最後の言葉が心に滲みた。あと一滴で満杯になる杯に落とされた最後の一滴のように、その言葉はサヨンの心に落ち、一杯に満たした。
 そして、そのひと言が満たしたのは、これだけではなかった。サヨンのトンジュへの想いもまた、彼の優しさによって満ちたのだ。
 溢れ出した心は涙となって流れ落ちる。サヨンの眼から透明な涙が次々にしたたり落ちた。
「サヨン、どうしたんだ。何故、泣く? 俺が何か気に障ることでも言ったか?」
「違うの、これは哀しみではなくて歓びの涙よ。あなたがそんな風に思っていてくれたなんて、そこまで私のことを心配してくれていたなんて、知らなかったもの」
 そう言っている間にも、涙は次々に溢れてくる。
 ただサヨンの予期せぬ逃亡を恐れたから、町で刺繍を売ることにトンジュが真っ向から反対した―、サヨンはそう思い込んでいた。よもや、その裏にトンジュの彼女を案じる心があるとは考えもしなかったのだ。
「判った、判ったから。もう泣くなよ、なっ」
 トンジュが必死に慰める。急にサヨンが泣き出したので、慌てているのだ。トンジュを困らせてはいけない、泣き止まないといけないと思うのに、意思の力に反して涙は止まらなかった。
 トンジュの優しさは不器用で無骨だ。恐らく一緒に暮らし始めてからの日々、彼は彼なりに精一杯優しさを示そうとしてきたに違いない。しかし、サヨンは最初から怯え、トンジュの優しさ―彼という男の内面を理解しようという努力はしなかった。
 自分なりに理解してみようと努力した自覚はあるが、所詮、表向きなものでしかなかった。今なら、素直に認められる。サヨンは最初から彼に対して背を向けていた。
 サヨンはトンジュの外見だけで、彼を判断していたのだろう。だからこそ、彼の本質を見極められなかった。
「おい、頼むから、泣き止んでくれよ」
 トンジュの情けない声が聞こえてきて、やがて抱きしめられる。
「ああ、どうすれば、泣き止んでくれるんだ!?」
 無骨な手がサヨンの背中を優しく撫でてくれる。その夜、サヨンはトンジュと心が近づいたように思えてならなかった。二人のこれからの関係に明るい希望が見えた瞬間だった。

 

 

 やわらかい風が後頭部で纏めた髪を揺らす。サヨンは頭上を見上げた。トンジュと心が通い合ったと感じた翌朝、サヨンは髪を上げた。これまでは垂らしていた三つ編みを纏めて髷を結ったのである。
 これは一般的には女性の成人、もしくは結婚したという意味を表す。もう自分は漢陽の屋敷で暮らしていた頃の自分ではない。一人前の女性になったのだ。トンジュに抱かれ、彼の〝妻〟なった。自分で髪を上げたのは、その決意の表れだった。むろん、艶やかな黒髪にはトンジュから贈られた黄玉(ブルートパーズ)の簪が煌めいている。
 もう遅いのかもしれない。だが、半月前の夜、確かに彼と束の間、心が触れあったという確信があった。あのときの心の温もりを大切にして、今度はサヨンがトンジュに温もりをあげたかった。優しさという温もりを。そして、相手に気づかれないようなさりげない優しさがあると教えてくれたのは、トンジュだった。
 大きく聳え立つ樹と樹は腕を交差するように互いに枝を張り出し、緑豊かな葉をふさふさと茂らせている。天蓋のように空を覆い隠すの樹々の隙間から、弱々しい光が洩れている。
 たとえひとすじの頼りなげな光でも、サヨンはホッと安堵の息を零した。