彼は私に指一本触れなくなった―安心して良いはずなのに何故、哀しいの? 小説氷華~恋は駆け落ちから | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~

あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。

 

 

 その日を境に、トンジュはサヨンに一切触れようとはしなくなった。サヨンは自在に森を抜けて麓まで行き来できるようになった。
 暦も三月に変わったばかりのある日、サヨンは麓まで降りた。山を下りて最も近い場所にあるのは山茶花(さざんか)村という小さな村である。冬には村中を山茶花が埋め尽くし、遠くは都の風流人がわざわざ訪ねてくるというほどの隠れた名所として知られている。
 山茶花村はまた玻璃(はり)湖という湖に隣接しており、この湖から採れる様々な恵みによって、村は生計を立てていた。玻璃湖は汽水湖である。つまり、淡水と海水の両方が流れているため、淡水で採れる真珠や海水で育つアワビ、昆布など実に豊富な種類のものが採れる。痩せ地であるため農業には適さず、玻璃湖で行われる漁に頼って暮らしているといって良かった。
 サヨンは普段使う水は、近くの池から汲んだもので賄っていた。小さな池だが、生活に使う水に困ることはない。
 その日、サヨンが山を下りたのは、麓の川で髪を洗うためだった。池で髪を洗っても良かったのだけれど、より澄んだきれいな水で洗いたかったのだ。
 トンジュはサヨンがいつも麓に行くことを渋ったが、どうしてもと頼むと、渋々許してくれた。彼はサヨンには黙っていたが、サヨンをいつも不憫に思っていたのだ。漢陽でコ商団のお嬢さまとして暮らしていた頃は、何不自由ない贅沢な暮らしを送っていたサヨンである。
 絹の服を纏い、ご馳走を食べ、することといえば女性としての教養を身につけるための稽古事くらいだった。それが、かつてのサヨンの人生のすべてであったのだ。
 しかし、トンジュがサヨンを屋敷から連れ出したことによって、サヨンの人生は劇的に変わった。今、サヨンは三度の食事から洗濯、掃除と十九歳になるまで一度もやったことのなかった家事をしている。トンジュの稼ぎでは絹など着せてやれないし、ここに来てからというもの、簪一つ買ったのが精一杯だった。
 これまでの暮らしから考えれば、質素きわまりない生活だ。たまには綺麗な衣装も着たかろうし、身を飾る宝飾類だって欲しいだろう。なのに、愚痴一つ零さず、慎ましく生活している。せめて川の水で髪を洗いたいのだと願う女心をどうして無下に駄目だと言えただろうか。
 川はさほど大きいものではなかった。しかし、流れは速く、河原は大きな無数の岩が川縁を囲むように折り重なっている。階段状に重なっているため、サヨンでも上り下りするのに苦労せずに済む。水飛沫を上げて流れている川の水は清らかで澄んでいて、くっきりと物の形を映し出した。
 サヨンは河原に着くと、早速、準備に取りかかった。濡れては困るので、上衣とその下の下着は脱いだ。脱いだものを丁寧に畳み岩の上に置き、髪を洗い始めた。
 胸に布を巻いただけのしどけない姿だが、周辺は大きな岩が天然の壁のように立ち塞がっているため、誰かに見られる不安はなかった。第一、ここから最も近い山茶花村ですら、徒歩で四半刻はかかる距離にあるのだ。トンジュが月に一度、薬草を売りにゆく町は更に遠く、一刻余りはかかる場所にある。
 こんな人気のない場所に来る物好きなど、そうそういるとは思えない。
 三月初めの水はまだ冷たい。手のひらで掬ってみると、なめらかで光り輝いている。まずそっとひと口含んでみると、甘露のうま味が冷たい感触と共に喉元をすべり落ちていった。
  山上と違って、ここには太陽の光が満ち溢れている。日毎に春らしさを増す陽光が川面に降り注ぎ、乱反射していた。 
 しばらく周囲の風景を眺め渡してから、髪を洗いにかかった。編んでいた髪を解き流し、水に浸ける。最初だけはひやりとしたものの、直に爽快感の方が勝ってくるのだ。サヨンは小声で歌を口ずさみながら、熱心に髪を洗い始めた。まさか、さほど遠くない岩の陰から数人の男たちが覗き見しているとは想像だにしなかった。

 その日、間の悪いことに、サヨンが赴いた川には珍しく別の人間たちが居合わせた。三人はいずれも二十代前半の若者たちで、親分格の青年は近くの町に暮らす地方両班の息子である。後の男たちは一人は地方両班の息子には従弟に当たり、都から酔狂にも鄙まで遊びにきたという経緯があった。あと一人は、この地方一帯を治める県(ヒヨン)監(ガン)(地方役所の長官)の跡取り息子である。
「おい、あれは何だ?」
 三人の中では中心にいる地方両班の息子が指を差し、後の二人は首をひねった。
「何か見つけたのか?」
「ホホウ。こいつは凄い」
 最初の若者は眼を眇めながら感嘆の声を上げた。
「おいおい、何だ、どうしたんだ」
 他の二人も俄に興味をそそられ、若者の肩越しに背後から覗き込んだ。彼らは丁度、サヨンが髪を洗っている場所の真向かいにいた。正確に言うと、向かいの岩壁の上だ。そこに陣取って、サヨンの姿を垣間見していたのである。
「最高の獲物を見つけたぞ」
「何だ、猪か鹿でもいたのか?」
「馬鹿を言え。たかが猪や鹿くらいで、ここまで愕くか」
「勿体つけてないで、何を見つけたのか教えろよ」
「百聞は一見にしかず、そなたも見てみろ」
 若者に押し出され、彼の従弟は伸び上がるようにして岩下の光景を眺めた。
「あまり顔を出すと、女にバレるぞ」
 しかし、若者の忠告は従弟には届かなかった。若者がよくよく見ると、岩下の魅惑的な光景に阿呆のようにボウとして見惚れている。
 折り重なったいちばん下の岩に横座りになり、うら若い女が髪を洗っている。上半身は胸に布を巻いただけでの半裸といっても良い姿で、彼らにとっては格好の目の保養となる。
 布を巻いているといっても、豊かなふくらみを見えるか見えない程度まで覆っているだけで、遠目からでも女が成熟しきった豊満な肢体を備えていることが判った。白いふくらみが眩しく、女が身じろぎする度に、誘うように揺れている。
「こいつは愕いた。こんな山奥の鄙びた場所に、あんな美女がいるとはな」
「本当だ。都でもあんな良い女、そうそう見かけないぞ」
 若者と異なり、都暮らしが長い後の二人は都の風物や情報にも明るい。二人の若い男は興奮気味に語り合った。
「しかし、妙だな」
 従弟が首を傾げた。
「何が妙なんだ」
 県監の息子も身を乗り出して岩下の光景に熱心に見入った。完全に鼻の下が伸びている。
「あれだけの良い女なら、こんな小さな町村ではすぐに噂になるはずだ。何せ目立つからな」
 従弟が思案げに言うのに、若者が目配せした。
「だが、考えてみれば、評判になっていないのは俺たちには好都合というものではないか?」
「なにゆえだ?」
 異口同音に問うた仲間たちに、若者はいかにも好色そうな分厚い唇を舐めた。まるでご馳走を前にしている驢馬のような面相である。
「俺たちが好きにしても、後腐れがないだろうということさ」
 そこで、三人の男たちは好き者めいた顔を見合わせ頷き合った。