小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~
あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。
「ここで売らないのなら、一体どこで売るんです?」
トンジュは依然としてサヨンを見ない。視線は町から持ち帰った袋に向けている。
「あなたが町に薬草を売りにいく時、私も一緒に連れていって貰えば良いのではないかしら。そこそこの規模の町なら、露店も多いでしょう。自分で店を出しても良いし、店をやっている人、例えば雑貨店なんかに置いて貰っても良い」
「流石は大行首さまの娘ですね。女だてらに、ちゃんと考えることは考えるんだ。世間のことも何も判らないお嬢さんだと思っていたのに、商売の才覚はあるんだな」
またしてもその言葉に刺を感じ、サヨンはつい声を荒げた。
「今夜のトンジュはおかしいわ。私が何を言っても、ろくに取り合ってくれない」
「そう言うあなたの方こそ、妙じゃありませんか。何故、いきなり今夜なんです? どうせ今日一日、ろくでもないことを考えていたのではありませんか? 俺が留守をしていても、一人では逃げ出せないので、今度は町に出る俺に付いてきて隙を見て逃げ出すことにしたのでは?」
「私は残念ながら、トンジュを買いかぶっていたようね。あなたはもう少し道理の判る男だと思っていた。目的を遂げるためには手段を選ばないところもあるけれど、情理も備えていて、高い場所から大きな視野で物を見ることのできる人だと信じていたわ」
「―ご期待に添えなくて、申し訳ありませんでしたね。お嬢さまが何をどう言おうと、今の話は、俺から逃げ出す口実にしか聞こえないんです」
こうなると、売り言葉に買い言葉である。
サヨンは拳を握りしめた。
「逃げようと思っているのなら、もっと早くに逃げたわ!」
「それは無理というものでしょう。あなた一人では絶対にこの山を降りられない」
この男は完全にサヨンを馬鹿にしている。 サヨンはムッとしてトンジュを睨んだ。
「あなたといるのが心底から嫌だと思うのなら、とっくに逃げ出していたわよ」
「途中で道に迷って死ぬと判っていても、ですか?」
トンジュがその時、初めてサヨンを見た。
「ええ、そのとおり。本当に嫌だと思ったら、死んだって構わないから、逃げ出すわ。むしろ、顔を見るのも嫌な人とずっと一緒にいるくらいなら、死んだ方がマシだと思うでしょうね」
「あなたがそこまで烈しい気性だとは思ってもみませんでした。人はやはり、よく付き合ってみないと判らないものだ」
「そうね。私もあなたがここまで偏狭な人だとは思わなかったもの」
「偏狭?」
「ええ、大らかな心で正しく物を見られる男だと信じていたのに、現実は違っていたのね。何て了見の狭い人だろうと失望したわ。ついでに言うと、ここに来てから、初めて本当にあなたから逃げ出したいと思った」
「俺から―逃げ出したいと? 今夜、そう思ったというのですか? 死の危険も厭わないから、顔も見たくないから?」
トンジュの声が一段低くなった。
サヨンがハッとして、彼を見る。彼の瞳は、怒りを剥き出しにしていた。
「どうやら、あなたは自分の立場を判っていないようだ。あなたは俺の囚われ人なんですよ? この際だから、はっきりと言いますが、俺はいつでも好きなときに、あなたを抱くことができるんです。俺が大人しくしているからといって、あまり甘く見ない方が身のためだ」
俺を怒らせると、あなたが怒らせたことを後悔するような方法で罰を受けることになりますよ。
トンジュは殆ど聞き取れないような、かすかな声で告げると、黙って猪肉の燻製に手を伸ばした。
涙月
サヨンは一人、月を見上げていた。それでなくとも普段から朧に滲んで見える月がなおのこと涙でぼやけている。
まるで通夜のように沈んだ雰囲気の中で夕飯が終わった後、サヨンは一人になるために外に出た。ひと間しかない小さな家では、どうしてもトンジュと顔を突き合わせることになってしまう。
今頃、都はどうなっているのか。。父は自分を探しているのだろうか。李スンチョンの息子トクパルとの婚約を前日にして、サヨンが家僕と姿を消したのだ。商売敵であるスンチョンは、当然、父に対してその責任を烈しく糾弾しているに違いない。
父を窮地に立たせてまで家を出たのに、自分は今、都から遠く離れた山奥でなすすべもなく無為に日を過ごしている。
父に対して申し訳ないという想いで一杯だった。
「何を見ているのですか?」
ふいに背後で声がして、サヨンはピクリと身を震わせた。
「俺に話せないようなことを考えているのですか?」
皮肉たっぷりの口調に、サヨンは哀しくなる。こんな台詞に返す言葉は何もなかった。
サヨンが何も言わないことが、かえってトンジュを苛立たせているらしい。
トンジュの声も言葉もますます尖ったものになった。
「それとも、逃げる算段でもしているのかな」
涙が零れそうになり、サヨンは慌てて眼裏で乾かした。
「特に何も考えてなんかいないわ。ただ月を見ていただけ」
「あなたが今、見ているあの月を都の人たちも見ている、この空は漢陽まで続いているのだと懐かしんでいたのでしょう。里心でも起きましたか」
都にいる父を思い出していたのは事実だった。真実を半ば言い当てられ、サヨンは押し黙った。
トンジュが口の端を引き上げる。これが機嫌の悪いときの彼の癖なのだ。
「当たらずとも遠からずというところですね」
突如として真後ろに気配を感じたかと思うと、髪に触れられた。愕いて身体を動かそうとし、諫められる。
「動かないで」
どうやら髪に何かを挿したようである。
「もう動いても良いですよ」
その声に、サヨンは手を伸ばして頭に触れてみた。結婚前の娘は長い髪を一つに編んで後ろに垂らするのが一般的だ。サヨンも今はその髪型をしている。
手で触ってみると、堅い物に当たる。簪か何かだろうか。
「これは何?」
トンジュを見上げて問えば、彼は少し眩しげなまなざしでサヨンを見つめていた。
「見てのとおりですよ」
刹那、サヨンの中にすとんと落ちてきたものがあった。
「もしかして、今日、町で探していたものって、これだったの?」
「はい、お嬢さまは日頃から高価なものに慣れているので、あまりに安物を買えば、つまらない品だと身につける気にもならないでしょうし、かといって、今の俺には高い簪は買えません。これくらいのところが精一杯でした」
トンジュは少し照れたような表情で言った。沈着な彼には珍しく頬をかすかに紅潮させている。
「本当は帰ってすぐ夕飯のときに渡したかったんですが、袋の奥に入っていたらしく、なかなか見つからないので焦りましたよ」
それで、夕飯の席についても、ろくに食べようともせず袋の中を覗いてばかりいたのだろう。
「なかなかこれというものが見つからなくて、一日中、店という店を覗いて探し回って見つけました。どうですか?」
サヨンは懐からいつも持ち歩いている手鏡を取り出した。トンジュが挿してくれた簪がよく見えるように持ち、映してみる。
「とても素敵だわ。これは玉ね? 高かったでしょうに」
簪(ピニヨ)は銀製で、その先には黄玉(ブルートパーズ)の玉石が光っている。花蕾を象った銀の枠の中に煌めく蒼い滴が宿っていた。まるで今、紫紺の空に浮かぶ月の光を集めたかのように夜闇の中できらきらと煌めきを放つ。
「たいしたことはありません。気に入って頂けると良いのですが」
鏡を見入っているサヨンを見て、彼もまた満足そうである。
「ありがとう。私には勿体ないくらい」
サヨンはトンジュを見上げて微笑んだ。
トンジュの面にも笑みがひろがる。
こうして和やかに話していると、先刻、サヨンの仕事について反駁し合ったのが嘘のようだ。
トンジュが笑顔で言った。
「いつかあなたが一人前の女性となった時、この簪を身につけて欲しい。俺の妻となった翌朝、俺があなたの髪を上げるんです。結い上げた艶やかな黒髪にこれを挿すんだ。さぞ美しいだろうな、あなたは」
サヨンの眼がトンジュを射るように見開かれた。
「それは、どういう意味?」
判っていながら、問い返さずにはいられなかった。