俺が抱くのは貴女だけ、他の女は二度と抱きません―熱く囁く彼は私より一つ年下の夫で 小説氷華~恋は | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~

あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。

 

 

 

 フンとそっぽを向くサヨンの頬をトンジュが人差し指でつついた。
「そんなにほっぺたを膨らませていては、元に戻らなくなりますよ。そういえば、サヨンさまの可愛らしい頬がいつもより随分と膨れているような」
 真面目に首を傾げて見せるのに、サヨンは蒼白になった。
「ほ、本当? 本当に頬がいつもより膨れている?」
 サヨンは蒼くなって自分の両頬を手のひらでさすっている。トンジュの表情が必死に笑いをかみ殺しているのにも気付かない。
 とうとう彼が堪えきれず笑い転げ出した時、漸く騙されているのだと悟った。
「酷い。トンジュは本当に本当に意地悪ね。ううん、そんな言葉じゃ足りないわ。そうね、トンジュみたいなのをイケズというのよ」
 トンジュの眼が愉快そうにきらめく。
「イケズ?」
「そう、透かしてる癖に、実は物凄ーく性格が悪かったりする人のことをイケズというのよ」
 トンジュがわざとらしい溜息をついた。
「仮にもコ商団の大行首コ・ヨンセさまのご息女が使うような言葉ではありませんね。良いですか、良家の令嬢は下品な言葉は使わないものですよ。一体、どこでそんないけない台詞を憶えたのですか?」
 半ば本気半ば真剣に滔々と述べる彼を見ていると、どうも自分より一歳年下だとは思えないサヨンである。
 サヨンがお嬢さま育ちの世間知らずだからということもあるだろうが、世慣れたトンジュの方がよほど年上のように思えた。
「あら、トンジュが私に教えてくれたじゃない?」
 サヨンはうつむき、わざと小さな声で言ってやる。
「え、俺がお嬢さまにそんなことを言いましたか!?」
「ええ、言いましたとも。あなた、自分で言っておきながら、憶えてないの? 都にいるときに、色町の妓房へ上がって、妓生から直接教わったとか何とか。見世の名前は、そうね、確か―」
 いつも冷静で落ち着き払っているトンジュらしくもなく、慌てている。サヨンは内心、ほくそ笑んだ。
 そっとトンジュの様子を窺ってみる。
 と、トンジュが見事に罠に填った。
「翠(チェイ)月(ウォル)楼(ヌ)ですか?」
 途端にサヨンはむくれる。
「なに、トンジュはその若さで妓房に行ったことがあるっていうの!? 大体、あなたは屋敷中でも評判の堅物だったはずよ。その真面目なあなたがどうして妓房の名前なんて知ってるのよ」
 ムキになって言い募るサヨンに、トンジュがニヤリと笑った。
「ああ、そういうことですね」
「何がそういうことなのよ? 勝手に一人で納得しないで」
「つまり、サヨンさまは妬いてるんだ」
「なっ、何を言うの? 馬鹿なことを言わないでちょうだい。あなたが妓生とどれだけ仲好くしようが、私には関係ないことだわ。失礼しちゃうわね。トンジュが妓房に上がったくらいで、どうして私がいちいち嫉妬しなければ駄目なの」
 サヨンは思い切り膨れっ面をして、プイとそっぽを向いた。トンジュをまんまと填めとやろうと目論んだものの、逆に彼に仕返しされる羽目に陥っている。
 からかわれているのだとは判らないのだ。
 トンジュがサヨンに近寄った―かと思うと、いきなり、ふわりと抱き上げられた。
「ト、トンジュ?」
 狼狽え、もがくサヨンを抱きかかえ、トンジュは極上の笑みを刻む。
―この男(ひと)は、何て素敵な笑顔で笑うの―。
 刹那、サヨンの胸の鼓動が速くなった。
「サヨンさま、よく聞いて下さい。屋敷内でどういわれていたかは知りませんが、俺は確かに妓房に上がったことは何度かあります。あなたには隠し事をしたくないから正直に言います。でも、俺が恋い慕っているのはサヨンさま、あなただけだ。ましてや、あなたとこうして一緒に暮らすようになったのだから、これからは二度と他の女は抱きません」
 あまりにも直截な告白に、サヨンは返す言葉が見つからなかった。
「ね、もう降ろして」
 消え入りそうな声で頼むと、サヨンの身体は静かに降ろされた。
「洗い物はやっぱり、私がしておくから。町までは遠いわ。早く出た方が良いと思う」
 トンジュの方を見ないで、もぞもぞと口の中で呟く。
「そんなに俺を早く追い出して、一人になりたいですか?」
 トンジュが眉をつり上げた。 
「―早く行って、早く帰ってきて。家を早く出れば、それだけ早く戻ってこられるでしょう」
 トンジュの顔を見ながらは到底口にできない台詞だ。
 現金なもので、途端にトンジュの顔がパッと明るくなった。
「俺がいないのが淋しいんですね」
「そんなのじゃないわ」
 サヨンはあらぬ方を向いたまま、わざと素っ気なく応えた。
 次の瞬間、サヨンはトンジュにきつく抱きしめられていた。
「トンジュ!」
 サヨンは取り乱し、懸命に小さな手で男の厚い胸板を押し返そうとする。
 トンジュがサヨンの背を撫でた。
「これ以上は何もしませんから、少しだけ、このままでいさせて下さい」
 そうまで言われて、抵抗はできない。
 実際、ここひと月の間、彼はサヨンの嫌がることは一切しようとしなかったし、不必要に身体に触れたりもしなかった。ひと部屋しかない部屋で眠る夜には、布団はむろん別々に敷いている。
「町で必要なものを仕入れたら、できるだけ早く帰ってきます」
 トンジュの声が耳朶をくすぐると、何やら得体の知れない妖しい震えが一瞬、サヨンの身体を駆け抜けていった。
―これは何なのだろう。
 馴染みのない感覚にサヨンは戸惑い、怯えた。
 慌てて身をよじって逃れようとするサヨンに、トンジュの端正な面がさっと翳った。
 しかし、すぐ思い直したらしく、サヨンの髪をいつものように優しい手つきで撫で、ついでに額に唇を落としていった。
「では、行ってきます」
「気をつけてね」
 トンジュが出てゆき、家の両開きの扉が閉まった。
 サヨンは思わず振り返り、たった今、トンジュが出ていったばかりの扉を見つめた。
 知らずトンジュの唇がかすめた額を手で触れてみる。その部分だけが何故か不自然に微熱を帯びているようだ。サヨンはその熱を冷ますかのように、勢いよく首を振った。
 急に思い立ち、扉を開けて外に飛び出してみても、既にトンジュの姿はどこにもなかった。
 家の外は、ぽっかりと拓けた平地と、その周囲を取り囲む鬱蒼とした森だけだ。
 サヨンは気が抜けたように、その場に立ち尽くした。風が吹き、緑の葉が一斉に揺れ、ざわめく。その音がサヨンには、あたかも我が身の心の声のように聞こえた。
 自分は一体、これからどうすれば良いのだろう。本当の想いは、どこにあるのだろう。
 耳を澄ましても、樹々からの応えは聞こえなかった。

 

 

 サヨンは先刻から何度目かになるか知れない溜息をついた。
 その日一日をサヨンは殆ど何もしないで過ごした。遠い町まで用足しに出かけたトンジュのために何か精の付くものをと考えたのだけれど、サヨンはトンジュの好物を知らない。
 悩んだ末、惣菜よりも菓子の方がわずかなりとも得意であったことを思い出して、焼き菓子を作ってみた。だが、夕方から始めた菓子作りは何時間経っても終わらず、結局は、またしても真っ黒になった菓子の残骸ができただけだった。
 今、彼女の眼前には、大皿に盛ったその菓子の残骸がある。とはいえ、その中の少しだけは何とか賞味に耐えるだけの出来のもの―要するに黒こげになっていないということ―が混じっている。そういうマシなものは、ちゃんといちばん上の方に乗せておいた。
 サヨンは、なおもしばらくその努力の結果を眺め、それから諦めの溜息をついた。予めトンジュが仕留めた猪を燻製にしてあったので、その猪肉を薄く切り、麦飯を炊いた。
 だが、陽が暮れて周囲が夜の闇に覆い尽くされる刻限になっても、トンジュは帰らなかった。
 森の夜は早い。しかも、山上の森である。昼間ですら、あまり陽が差さないのだから、暗くなるのが下界より早いのは当然ともいえた。
 ミミズクがホロホロと啼く声が余計に心細さを募らせるようで、サヨンは家の外まで何度も出てみた。
 トンジュに早く帰ってきて欲しかった。
 ずっと真っ暗な外にいても仕方ないので、家の中に戻った。
 狭い部屋の内を所在なげに行きつ戻りつしているうちに、サヨンの心に一つの疑念が浮かんだ。
 もしかしたら、トンジュはもう二度とここには戻らないのではと思ったのである。