7歳の時から俺は貴女だけを見てきた―俺の妻になって夢を叶えてくれませんか? 小説氷華~恋は駆け落 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~

あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。

 

 

 

「ここに、あなたの生まれ故郷があったのね」
 サヨンの前方には、もう何も存在しない。ほんの十年余り前には、この地にはまだ村人が暮らし、ささやかで平和な日々を紡いでいたというのに、彼等が生きていた証も痕跡も何もない。
 かつてこの場所に高度な薬草知識を持った人々が暮らしていた―、そのこともやがては遠い歴史の底に沈み、闇から闇へと消えてゆくのだろう。
 人はあまりにも儚い。
 サヨンの眼からは、ひっきりなしに涙が溢れ、頬をつたい落ちた。
「村人のために泣いてくれるんですか」
 サヨンの涙にトンジュは胸を突かれたようだ。
 サヨンは涙をぬぐって言った。
「家を建てましょう。ここに家を建てて、また村を作るのよ。孫のあなたが帰ってきたんだもの、お祖母さまも他の村人たちもきっと今、歓んで迎えてくれているわ」
「サヨンさま、それは―今の言葉は、俺と一緒に村を作って、ここで生きてゆくということなのですか?」
 トンジュの眼に明るい希望の光が灯る。
 サヨンは弱々しい微笑みを浮かべた。
「誤解しないでね。確かに私はここであなたが新しい村を築くのを見届けたいし、必要であれば力にもなりたいと思っている。でも、それは、あなたと一緒に生きていくという意味ではないの。同じ志を持って協力し合って生きていくのと男女の恋愛は違うでしょう」
「そう、ですか」
 あからさまに落胆の色を浮かべるトンジュを見ていると、何か自分の方が悪いことをしているような後ろめたさを憶えてしまう。
「俺がお嬢さまに惚れていることが、お嬢さまを苦しめているんですね」
 あのサヨンが苦手な思いつめた瞳で言われても、〝そうだ〟と頷けはしない。
「私には、あなたに返すべき言葉がまだ何も見つかってないの。ただ一つだけ、あなたの今の話を聞いていて、判ったことがある」
「それは何ですか?」
 直裁に訊ねられ、サヨンもまたトンジュの視線を今度ばかりは逸らすことなく受け止めた。
「私もここに新しい村ができるのを見てみたい、そう思ったのよ。あなたが話していたような、村人皆が家族であり兄弟のように暮らせる村。そんな村がまたここにできたとしたら、素敵でしょうね。私の見つけた夢というよりも、希望のようなものかしら」
「お嬢さまの夢―」
 トンジュは呟き、サヨンを見つめた。
「サヨンさま、俺の夢の話を聞いてくれませんか?」
 突如として言い出す男に、サヨンは眼を見開く。
「夢?」
「俺には子どもの頃から、ずっと夢があったんです。俺にとっては忘れられない想い出がありますが、サヨンさまは、憶えてはいないでしょうね」
 話を振られても、サヨンは曖昧な笑顔を返すしかない。
「俺がお屋敷で奉公するようになってまだ日も浅い頃のことです」
 七歳で生まれ故郷の村を離れたトンジュが最初に訪ねたのは、麓の町だった。折しも町には奴隷商人が滞在しており、トンジュは自分から彼に頼み込んで、都で働きたいから働き口を探して欲しいと頼んだのだった。
 わずか七歳の子どもが自分から身を売ったのである。トンジュは元々は良民の身分を持っていたのに、そのときから隷民になったのだ。身を売って得たなけなしの金は、町外れの寺に喜捨してきた。寺の住職に金を渡し、ろくな供養もして貰えず亡くなった村人たちのために経をあげて欲しいと頭を下げて頼んだ。
 幸い住職が慈悲深い人だったため、トンジュは安心して町を離れることができた。彼は奴隷商人と共に旅を続け、無事、漢陽に着いた。奴隷商人がトンジュを連れていった奉公先というのが他ならぬコ・ヨンセの屋敷であったというわけだ。
「今でこそ図体だけはでかくなったけど、俺はガキの時分はチビでした」
 トンジュの言葉に、サヨンは笑った。
「よく憶えてるわよ。あの頃は、まだ私の方が背が高かったんだもの」
「だからかな、よく他の下男連中から苛められたんです。旦那さまに学問を教えて頂いていることを知っていたのは朴(パク)執事さまと女中頭さまだけだったので、そのことが原因ではなかったと思うのですが、とにかく生意気だとか何とか、理由にもならない理由で泣かされてばかりでした」
 そんなある日、幼いトンジュは井戸端で泣いていた。既に夜毎、大行首の部屋へ伺って学問の稽古をつけて貰うのは日課になっていた頃の話だ。
 泣きじゃくるトンジュの小さな手には、大行首さまから頂いた大切な書物が握りしめられていた。それは子ども向けのハングル語初心者用教本であった。頂いてからひと月を経ない中に、その薄い本は幾度も読み返され、自分で書き足した跡や大行首さまから聞いた大切なことが走り書きで記されていた。
 その大切な本をあろうことか、年上の下男に取り上げられ、何枚かを破られてしまったのだ。トンジュは哀しいことがあった時、井戸端でよくひっそりと泣いた。ここならば、人眼につかず、泣きたいだけ泣けるからだ。
 そのときも本を胸に抱いて声を上げて泣いていたのだが、不運にも通りすがりの誰かがトンジュを見つけてしまったのだった。
―泣かないで。
 泣いている幼いトンジュの肩にそっと置かれた小さな手の温もり。
 そのときの記憶は、七歳の多感な少年の記憶に鮮烈な印象を残した。
 振り向いたトンジュの眼に映じたのは、一人の少女であった。若草色のチョゴリと眼にも鮮やかな牡丹色のチマを身につけた可憐な少女は、さながら庭に咲く牡丹の花の化身かと見紛うほどだ。
 トンジュが愕きのあまり声も出せないでいると、少女はふふっと悪戯っぽく微笑んだ。
 後ろで一つに編んだ長い髪に手を伸ばし、髪に飾っていたリボンを取ったかと思うと、トンジュの手首に巻き付けた。
―これは涙の止まるおまじない。だから、もう泣かないで。生きていれば、愉しいこともあるし哀しいこともあるわ。今日、哀しいことがあったのだから、きっと明日は愉しい良いことがあってよ。禍福は糾える縄のごとし、昔の諺にちゃんと書いてあるの。あなたは本も読めるようだから、きっと意味を判ってくれるわよね?
 言うだけ言うと、少女はもう一度微笑み、弾むような足取りでお屋敷の方へと去っていった。まるで春風が一瞬、側を吹き抜けたかのような心持ちで、トンジュは泣くのも忘れ果て、茫然と少女の消えた方を見つめていた。
 トンジュの手には、鮮やかな牡丹色の髪飾りだけが残った―。
「それでは、あなたがあのときの子だったの?」
 サヨンは眼を輝かせた。あの日の出来事は、サヨンもよく憶えている。
 痩せっぽちで背が低くて、男の子のくせに泣きじゃくっていた少年の姿はいまだに脳裏に灼きついていた。
 それにしても、あの泣いていた男の子がまさかトンジュだったとは! 彼がこの屋敷に来たときから知っているといっても、トンジュを屋敷内でよく見かけるようになったのは、この出来事から少なくとも数年後のことだ。
 この時期になると、トンジュも新参者扱いされなくなり、機転も利く働き者として執事や女中頭に眼をかけられるようになっていた。そのため、年少の使用人たちの間での苛めもなくなり、むしろ陰湿な苛めや嫌がらせから年下の子どもを庇ってやる立場になっていた。
 その頃、トンジュは既に十歳になっており、屋敷に来たときに比べれば身の丈は幾分伸びていた。もう、三年前に泣いていた幼い男の子の面影はなくなっていた。とはいっても、まだ、その頃はサヨンよりもほんの少しは背が低かったのだ。
 ゆえに、厳密にいえば、サヨンがトンジュを知っているのは十歳以降の彼だ。だからこそ、サヨンもあのときの泣いていた子どもがトンジュだとは気づかなかった。
「あのときから、俺は夢を見るようになったんです」
 トンジュが懐から後生大切そうに取り出したのは、小さな髪飾りだった。
「これに見憶えがありますか?」
 サヨンは差し出されたリボンを受け取った。半ば色褪せた子ども用の髪飾りは、昔は確かに鮮やかな牡丹色をしていたのだろうと彷彿させる。
「忘れるはずもないわ。私が使っていた髪飾りよ。私があの時、泣いていたあなたの手に巻いたものでしょう」
「俺にとって、これはずっと宝物でした。辛い時悔しい時、いつもこれを眺めていたんです。今日、哀しいことがあったのだから、明日は必ず良いことがあると言ってくれたサヨンさまの言葉を噛みしめながら生きてきました」
 わずかな沈黙があった。新たにくべられた薪が勢いよく燃え上がった。
「あの日、俺はお嬢さまを妻にするんだ、あの優しくて賢い女の子をいつか手に入れたいと子ども心に決意したんです。あのときから、俺はずっとサヨンさまだけを見つめてきました」