私、あなたの側にいても良いわよね? 妻の無垢な瞳にジュンスは、、、小説 九尾狐異伝 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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  宿命


 俊秀は薄い夜具の中で何度目になるか判らない寝返りを打った。
 上半身を起こそうとすると、くらりと眩暈がする。額を押さえると、異様に熱い。やはり、彩里に言われたように、せめて今日一日は大人しく横になっているのが賢明なようだ。
 薬草摘みから戻った翌朝、俊秀はいきなり高熱を出して寝込むことになった。
 全く、俺としたことが、男の癖に情けない。
 俊秀はとことん落ち込んだ。
 今回の熱は、落胆と衝撃もさることながら、昨夜、冷たい夜風に長時間当たったせいだと判っている。
 それにしては、彩里がいつものように健康そのものなのが今一つ解せない。俊秀は、深夜、こっそりと小屋を出た彩里の後をついていっただけで、特別に何かをしたわけではない。
 裏腹に、彩里は真冬のこの寒さの中で、冷たい泉に入り、水浴びまでしたのだ。その後、一糸纏わぬ姿で月光を浴びていた。普通の人間なら、必ず風邪を引く―どころか、肺炎を起こしてしまうだろう。
 しかし、見たところ、彩里は常と変わらず、むろん俊秀のように高熱も発してはいない。
 そんなところも、彩里がやはりただ人ではないのだと思わざるを得なかった。九尾狐は狐の中でも特別な妖力を持つ生きもので、狐とはいえども、ただの狐ではない。その寿命は人間などが思いも及ばないほど長く、中には数百年を生きるものもあると聞く。
 俊秀は四半刻前に妻と交わした会話をぼんやりと思い出していた。
―行ってきます。
―気をつけて行くんだぞ。
 言いたいことは、もっとあったはずだ。
 彩里は今朝、熱で動けない彼に代わって、顧客の許まで薬を届けにいった。その客は都でも結構名の知られている両班で、金(キム)成凞(ソンイ)といった。王宮の役人のことなど、とんと判らない俊秀だが、ソンイは何でも兵曹(ピヨンジヨ)判(パン)書(ソ)とかいう、たいしたお役についているそうだ。
 ソンイは、けして根っからの悪人ではない。だからこそ、俊秀のような町の露天商を信用して贔屓にしてくれるのだ。実際、俊秀の商う薬はよく効くと専らの評判で、貧しい人々だけでなく、こういった両班の中にもわざわざ評判を聞きつけて買いにやってくる者もいる。
 が、この金ソンイにはただ一つ、しかも決定的な難点があった。それは、無類の女好きということだ。ソンイには奥方の暮らす本邸にも数人の妾がいるが、更に漢陽のあちこちの別邸にも複数の側妾を置いているという。
 まあ、その外見からして、流石に武官上がりと思わせる屈強な体軀といかめしい風貌におよそ似合わない細い眼は、いかにも好色そうな光が瞬いている。
 俊秀は、できるならば、彩里を金ソンイの屋敷に行かせたくはなかった。当然のことだ。ソンイが王宮の帰りに輿で町を通る際は、人妻でも嫁入り前の娘でも、美しい女なら必ず家の中に隠せ―と言われるほどで、とにかく美しい女には眼がない男である。
 少女のあどけなさと妖艶な女の顔を持つ美しい彩里。彼の妻をひとめ見て、ソンイが食指を動かさないはずはない。
 が、生憎と今日はソンイの屋敷までいつもの常備薬を届けにゆくことになっている。ソンイは納期には煩く、一日でも遅れれば、出入りを差し止められしまう怖れがあった。
 もっとも、彩里を犠牲にしてまで商売を続けるつもりは毛頭ない。大切な妻を好色なソンイに奪われるくらいなら、得意先を失った方がよほどマシだった。
 しかし、彩里がそれを認めるはずもない。彼の大切な妻は、愛らしい外見に似合わず、なかなか頑固だ。ソンイの屋敷には自分が代わりに届けにゆくと言い張って譲らなかった。
―もし、お前が兵(ピヨン)判(パン)大(テー)監(ガン)の眼に止まったりしたら、どうするんだ?
 俊秀が顔色を変えて止めても、彩里は微笑んだ。
―お屋敷の使用人に薬を渡したら、すぐに帰ってくるわ。それなら、兵曹判書さまが私を見ることもないでしょう。
 そう容易く事が運ぶとは思えない、というのが俊秀の本音である。美しい女、意に適った女を手に入れるためには、どんな労でも惜しまないと評判の金ソンイだ。使用人から美貌の女房が代わりに薬を届けにきたと聞けば、飛んででも彩里をひとめ見にやってくるだろう。
 俊秀の不安をよそに、彩里はそれから半刻後には帰ってきた。
「お帰り、ご苦労だったな」
 声をかけて起き上がろうとすると、またクラリと眼が回った。
「あなた、まだ起きてはいけないわ」
 彩里が駆け寄ってきて、俊秀の身体を支えた。
「済まないな。たかが薬草摘みに出たくらいで、風邪を引き込んでしまうとは、我ながら情けない」
 彩里に手を貸され再び横になる。ただ寝ているだけなのに、どっと疲れが出たように思えた。彩里の無事な姿を見て、緊張が解けたせいだろうか。
 彩里は笑った。
「これまでずっと働きづめだったんですもの。少しは休まないと。代わりのきかない大切な身体よ。あなたが休んでも、その分くらいは私が働きますから、気にしないで、ゆっくり寝ていてね」
「兵判大監には逢ったのか?」
 いちばん気がかりなことを訊ねると、彩里は笑いながら頷いた。
 最初に出てきたのは金家の執事であったが、執事は一旦奥に引っ込み、その次に出てきたのが兵曹判書当人であったらしい。
 美貌の女が代理に薬草を持参したと聞き、好き者の兵曹判書は自らその事実を確かめずにはいられなかったようだ。
 事態は、自分の抱いていた危惧のとおりになった。俊秀はほろ苦い後悔を噛みしめ、やはり妻を行かせるべきではなかったと暗澹とした想いに駆られた。
「物凄い女好きだって聞いていたから、どんな脂ぎった助平親父かと思ったけど、実際は、そうな風には見えないのね。苦み走った感じの男前だったわ。私のような身分の賤しい者にも、気さくに声をかけて下さるし、偉ぶったところはないの。何だか、両班じゃないみたい」
 何故かその言葉が酷く癪に障り、俊秀はつい声を荒げた。
「彩里は、あんな男が好みなのか? それとも、兵判大監が朝廷のお偉い大臣だから、権力を持っている男の方が良いのか」
 彩里は意外そうに眼を幾度もまたたかせた。
「何が言いたいの、俊秀。あの方は私から見れば、父親ほどの歳の人よ。それに、確かに男前だけど、俊秀の方が数倍も良い男だわ」
 あまりにも直截な科白に、俊秀の頬がカッと熱くなる。
「お前な、そういうことを素面で言うか? 普通はもっと照れるものじゃないか」
 まさか狐だから、人間のように照れもせずに恥ずかしい科白を平然と口にするというわけでもあるまい。
「私は俊秀の傍にいられれば、十分幸せなの。いつかもそう言ったはずよ。なのに、何で兵曹判書さまと少し話しただけで、ムキになって怒るの?」
 俊秀は笑いながら頷いた。
「それもそうだな。済まない。どうも、お前が兵判大監をあからさまに褒めたんで、柄にもなく妬いてしまったらしい」
「嬉しい。俊秀が他の男の人に嫉妬してくれるだなんて」
 心底嬉しげに言う彩里を見て、俊秀は苦笑いする。
「変な奴だな。あれだけ俺に厭味を言われたのに、嬉しいのか?」
 彩里は愛らしい面をくしゃっと綻ばせた。
「もちろんよ。私が兵曹判書さまを褒めて、あなたが嫉妬したというのなら、それは、あなたが私をとても大切に想ってくれているからだわ。あなたが私を好いてくれていると知って、私が歓ばないはずはないでしょ」
「お前って奴は―」
 俊秀の心に彩里への愛しさが溢れた。
 彩里、お前がたとえ九尾狐であったとしても、俺は構いはしない。たとえ、お前が何ものであろうと、俺が生涯かけて愛し続ける女はお前だけだ。
 心の中で妻に呼びかける。
「俊秀、大好き」
 いきなり彩里が飛びかかってきて、横たわったままの俊秀は悲鳴を上げた。
「おい、急に上にのしかかってきたら、潰れるじゃないか!」
 俊秀の声が途切れた。彩里が俊秀の顔の両脇に手を付いて、じいっと真上から覗き込んできたからだ。
「ね、俊秀。私、ずっと、あなたの傍にいても良いわよね?」
「何を馬鹿なことを言ってるんだ。お前は俺の女房だろう? 女房は亭主の傍にずっといるもんさ。それに、お前はいつか言ってたじゃないか。俺が出てゆけと言わない限りは、いつまでも俺の傍にいるって。自分で言っておきながら、もう忘れたのか?」
 彩里の可愛らしい顔が笑み崩れた。
「そう、ね。そうだったわよね」
 漆黒の濡れた瞳が見つめている。
 俊秀はふいに胸苦しさを憶え、眼を閉じた。
 瞼に昨夜の光景がありありと甦る。
 清かな月明かりを浴びていた美しい女の裸身。さざ波一つない泉。その周囲を囲むように咲き誇っていた季節外れの秋桜たち。
 そして、月光を浴びながら九尾狐に姿を変えた妻。
「何故、眼を閉じるの? 俊秀」
 何も知らない彩里の無邪気な声音が俊秀の心を切り裂く。