屋上で彼と二人きり。心はぐっと近付いて-。小説 シークレットガーデン~許されぬ愛の果てに~ | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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 駆け足で一階まで降りて校長室の前を通り掛かった時、折しも中から出てきた校長と出くわし、慌てて頭を下げた。
「ああ、君。確か前橋君だったかね?」
 呼び止められ、心優は頷いた。
「はい」
「丁度良かった、近い中には話をしなければならないと思っていたところだ。ちょっと良いかな?」
「あ、はい」
 逆戻りした校長に続いて校長室に入る。
 校長は五十代半ばほどの、頭の禿げ上がった人である。中肉中背、特に印象に残るようなタイプではない。校長は大きく背後を切りとったガラス窓を背にしてデスクに座った。
「まあ、何と切り出して良いものやら、だが」
 と、スーツの胸ポケットからくしゃくしゃの白いハンカチを出した。禿げ上がった頭に滲んだ汗を忙しなく拭き、また、ハンカチを突っ込む。
「まあ、こういう話は率直に言った方が早いだろうからね。前橋君、君はそのう何だね、担任の教え子とまあ何というか、特別な関係になっておるのかな」
 刹那、心優は脳天を何かで打たれたような気がした。数日前、職員用の女子トイレで長瀬と二人きりでいた時、踏み込んできたあの同僚の女教師の顔が浮かぶ。
「いいえ、そんな話は間違ってもありません」
 即座に否定し、校長を食い入るように見つめた。
「一体、誰がそんなことを?」
 校長はつと視線を逸らした。
「まあ、君自身が憶えがないというのなら、それで良い。君の前任校での勤務ぶりも聞いてみたが、真面目で生徒たちはもちろん、同僚の教師たちの受けも良い。前の校長は前橋君に限って、そんなことはあり得ないと君の人柄については保証した。男子生徒と特に問題を起こしたということもないようだから、今回は私も何も聞かなかったことにする。だがね、前橋君。人の口に戸は立てられんし、教師たる者はいつ誰に見られても疚しくない行いをしなければならん。それだけは君も心得ておいてくれたまえ」
「―はい」
 頷いて一礼して校長室を出るも、心優の心は悔しさで一杯だった。あの英語教師の村田君子が校長に告げたのは間違いない。もっとも、校長の言うように、教師はいつ誰に見られても疚しくない行動を取るべきだ。その点で、心優は取り返しのつかない失態を犯した。
 確かに職員用の女子トイレに男子生徒と二人きりでいるところを見られたのはまずかった。あの場合、青田が去った時点ですぐに廊下へ出るべきだった。自分の配慮が足りなかったのだ。
 職員室に戻る気は失せていた。戻ったところで、あの村田の顔を見なければならない。今は到底、彼女と顔を合わせる気にはなれなかった。村田君子はもう六年も前からR高校に勤務している。歳も三十五歳と心優よりは十以上も年上だ。迂闊に楯突くわけにはゆかない。
 村田は二十代後半で結婚し、会社員の夫と二人暮らしだという。子どもはいないと聞いていた。こんなことを言いたくはないけれど、狐のようにつり上がった細い目は銀縁の目がねともあいまって、きつい印象を与える。R高校の教職員は男性が六割、女性が四割と男性の方が若干多いせいか、女性教諭たちは皆、世代を超えて仲が良く、結束力も固い。そんな中で村田だけがいつも口数も少なく、孤立している感じだ。
 心優は心の中にあるもやもやしたものを吹き飛ばすかのように、勢いよく首を振った。
 私は疚しいことなど何一つないのだから、毅然としていれば良い。配慮が足りず誤解を招くような事態にしてしまったのは他ならない自分だが、現実として恥じ入ることは何もなかったのだ。今は凜として前を向いていれば良いではないか。
 こそこそとうつむいて歩いていては、余計に他人に要らざる疑念を抱かれるというものだ。
 心優は脚の向くままに屋上に行った。手で押すと、年代物の鉄扉は軋みながら開いた。
 意外なことに、そこには先客がいた。ぐるりと周囲を囲ったコンクリートの柵に寄りかかるようにして、その人は空を見上げていた。煙草を吸っているのか、白い煙がたなびいている。先ほどの校長の話もあったばかりだ。心優は用心するに越したことはないとそっと踵を返そうとした、その時。
 その人物が何かを察知したかのように振り向いた。
「誰が来たのかと思ったら、先生か」
 長瀬は屈託ない笑みで手を振った。
「私で悪かったわね」
 ここで引き返すのもかえって妙だと思い、心優は長瀬の方に歩いていった。
「まさか先客がいるとは思わなかったわよ」
 これは本音だ。と、長瀬は肩を竦めた。
「嫌なことがあったり、むしゃくしゃして爆発しそうになったら、ここに来るんだよ」
「そういえば、数学の本井先生が言われたわね。屋上は長瀬君専用の貸し切りだって。よく授業をサボッて、ここに来るの?」
 長瀬は毛虫でも踏みつけてしまったかのように綺麗な顔をしかめた。
「他の男の話は聞きたくないって言っただろう。それに、あんなスカした野郎が気になるのか? 俺は青田と同じくらい、本井は嫌いなんだ」
 心優はハッとした。そういえば、と今更ながらに思い出す。数学の本井基(はじめ)は二十九歳で、職員の中では心優と最も歳が近い。比較的中高年が多い中、二十代の若手は心優と本井だけなのだ。そのため、顔を合わせると話をすることも多い。
 心優が特に親しいのは社会を担当している三十歳になったばかりの女教師である。その彼女がいつかこんな話をこっそりと教えてくれた。
―以前、本井先生と長瀬君が殴り合いになったことがあってね。
 何でも、一年のときの担任が本井だったのだという。長瀬の授業時の態度が悪いのはその頃からで、ある時、本井が長瀬に向かって
―お前の素行の悪いのは母親の躾けがなっとらんからだ。
 と決めつけて、それがきっかけで取っ組み合いの喧嘩になった。しかも最初に殴ったのは本井の方だという。
―お袋の悪口は言うな。
 剣呑な眼で警告した長瀬を本井は鼻で嗤ったという。
―所詮は水商売の女だろうが。
 そのひと言で長瀬が激怒した。
―親のコネで教師になった癖に偉そうに言うな。
 本井が校長の甥であるというのは誰もが知っている。本当に縁故就職なのかどうかは判らないが、そんな噂があるのは事実だ。
 売り言葉に買い言葉で、あまつさえ教師という立場にありながら、生徒の保護者について罵倒するような感情的かつ不用意な発言は明らかに本井の方に非があった。しかし、長瀬の一撃で本井は一週間は学校を休まねばならないほどの大怪我をすることになってしまった。
 本来なら警察沙汰になることだが、長瀬の父が多額の寄付をして事を内密に収めたため、事は公にならなかった。校長にすれば甥は可愛いが、学校一番の支援者を怒らせるわけにはいかなかったのだ。そのときから、本井と長瀬は犬猿の仲なのだそうだ。
「ごめん、不用意な発言だったわ」
 素直に謝ると、長瀬は無邪気に笑った。こんな笑顔を見ると、普段は大人びて見えても、十七歳という歳相応だ。到底、その毎日に鬱屈したものを抱えているとは思えない。
「あのね、長瀬君。私はこれでも教師よ。未成年者の喫煙を黙って見過ごすわけにはいかないのよ」
「煩ェな」
 長瀬は含み笑い、吸いかけの煙草を下のコンクリに押しつけた。そのままズボンのポケットから取り出した携帯の灰皿に入れるのを見て、心優は眼を丸くする。
「凄い、マナーを守る子なのね」
 長瀬は苦笑した。
「俺だったら、ゴミはポイ捨てが似合うって? 何だよ、それ」
 彼はおどけたように言い、続けた。
「子どものときから、お袋に他人に迷惑をかけるような行為だけは絶対にするなって言われたからな」
「素敵なお母さんね。判っていても、なかなか言えないことよ」
 と、彼が信じられないものでも見たように心優を見た。
「教師にそんなことを言われたのは初めてだよ。先生って名前どおりの人なんだかな」
「え?」
 何を言われているか咄嗟に判らず眼を見開いた心優を彼は眩しげに見つめた。
「先生の名前、心が優しいって書くんだろ」
 ああ、と、心優は頷いた。
「読みにくい字でしょ。親が何か凝っちゃって難しい読み方にしてくれたせいで、なかなか読める人がいないのよ」
「良い名前だと俺は思うけど」
「ありがとう」
 また長瀬が眼を細めて心優を見つめ、それからポツリと呟いた。
「お袋のことを悪く言うヤツばかりだから。俺、それが悔しくてさ」
「言いたい人間には言わせておけば良いのよ。大切な息子であるあなただけがお母さんのことを信じて理解してあげていれば、きっとお母さんは大丈夫だと思うから」
 心優は心から言った。