あなたに出会えて、私は幸せでした。帝国始まって以来の醜聞は実は悲恋だった? 小説 後宮艶夜* | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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 刀傷は思いの外深かった。刃が内臓まで達し著しく損傷してしまったのである。そのため傷が化膿して高熱を発した皇帝の汗を拭き、冷たい水に浸した手ぬぐいを額に乗せる。汚れた夜着はこまめに取り替え、清潔を保った。
 薬湯は医師の指示どおり服用させる。嚥下するのが難しいため、木匙でひと匙ずつ掬い口に入れるという根気の必要な作業を紫蘭は黙々とこなした。
 紫蘭の切なる祈りが天に届いたのか、皇帝は負傷して五日めに昏睡状態から醒めた。すぐに医師が呼ばれ診察に当たった。
 紫蘭は別室に侍医を呼び、かすかな希望を込めて訊ねた。
「陛下のご容態はいかがですか?」
 だが。そろそろ頭に白いものが混じり始めた侍医は何も応えようとしなかった。彼が口を開くまでの沈黙がこれから起きようとしている信じられない事態を何より物語っているようでもあった。
 侍医はうつむき加減のまま言上した。
「お目覚めになったのは奇蹟としか言いようがございません。最早、内臓が傷み切って爛れております。回復は不可能に近いかと拝察仕ります」
 紫蘭は言葉を失った。絶望で眼の前が一瞬、白く染まった。
「それでは、もう陛下が回復する見込みはないと?」
 侍医はますます頭を垂れた。
「残念です。無力な私をお許し下さい」
 紫蘭は力尽きた想いで病室に戻った。皇帝は眼を開けている。この男がもうすぐ逝こうとしている。私一人を残して。
 そう考えただけで涙が溢れそうだが、本人の前で涙は見せられない。昔、書物で読んだことがある。病は乗り切ろうとする病人の心もちが大切なのだと。
 ならば、私は最後まで可能性を信じよう。必死に祈れば、神も私の想いを聞きとどけて下さるかもしれない。
 紫蘭は涙を堪え、微笑んで皇帝の枕辺に座った。
「ご気分はいかがですか?」
「思いの外、良い」
「そうですか。何か召し上がりたいものなどがあれば、すぐにお持ちします」
 殊更明るい声音で言うと、皇帝が手を伸ばした。
「紫蘭」
 紫蘭はその手をしっかりと握った。皇帝の手はゾッとするほど冷たかった。昨日までは高熱であれほど熱かったのに。それがまるで彼の寿命が次第に尽きるのを示しているようで、紫蘭はまた泣きそうになるのを堪えた。
「そなたには済まぬことをした」
 ポツリと洩れ出た短い呟きに、紫蘭は首を振る。
「その科白はもう聞き飽きました。かつては陛下をお恨みしたこともありましたが、今は大切な方だと心から思っております。ですから、もう謝るのは止めて下さい」
「そう言ってくれるなら、ありがたい。俺もこれで安心して逝ける」
 紫蘭は泣き笑いの顔で言った。
「何を気弱なことを仰せられるのです。いつか陛下ご自身がおっしゃったではありませんか」
―俺はそなたさえいれば良い。子はおらずとも日は過ぎるが、そなたがいなければ俺の一日は始まらぬ。
 紫蘭はあの科白を繰り返した。
「私も今は同じ気持ちです、陛下。陛下なくして私の人生は考えられません。ゆえに、一日も早くご回復されて、また元のようにお元気になって下さいませ」
「もし、俺が亡くなっても、そなたには離宮を与え、生涯何不自由なく暮らせるように取り計らっている」
 弱々しい声、虚ろなまなざし。ああ、このひとは本当に逝こうとしているのだ。紫蘭は思わず洩れそうになる嗚咽を飲み込み、無理に笑顔を作った。
「お止め下さい。そんな哀しい不吉な話は聞きたくありません」
「俺は」
 言いかけた皇帝がツと苦悶の表情を浮かべる。
「陛下、もうお話しにならないで」
「いや。俺には時間がない」
 皇帝は既に自分の寿命が尽きていることを悟っている。そのことが紫蘭の哀しみを余計に増した。
「皇子たるもの、常に暗殺の危険が付きまとう。俺は特に酷かった。義母である皇后に疎まれ憎まれ、幼いときから長ずるまで、何度殺されかけたか知れない。だから、俺は無能な皇子のふりを装い周囲を欺いた。目立たずひっそりと生きれば、生命を存えることもできようと教えてくれたのは胡太后だ。そなたには酷い太后だが、俺にはたった一人、本物の愛情を注いでくれた祖母だった」
 皇帝がまた顔を歪め、それでも、続ける。
「いつかこんな日が来るだろうことは覚悟していたよ。だから、俺に何かあっても、そなたが暮らしてゆけるだけの手配はしていた。こんにも早く役立つとは思わなかったが」
 笑おうとしてまた傷が痛むのか、辛そうな表情を浮かべる彼を見ていられない。
 それにしても、何と哀しいことなのか。皇帝は幼いときから今に至るまで、ずっと気に休まるときはなかったということだ。普段から暗殺の可能性を感じ、危機感を抱いていたからこそ、自分の死後は子のない紫蘭に離宮を与え生活の保障をするということまで手配していたのだろう。
 三十一歳で死後のことまで早々と手配しているなんて。可哀想な男―。
「そんな哀しいことをおっしゃらないで」
 とうとう我慢しきれなかった涙の粒がつうーっと頬を流れ落ちた。
「私のために泣いてくれるのか?」
 皇帝が微笑んだ。
「泣くな、頼むから、泣いてくれるな。そなたが泣けば俺はどうして良いか判らなくなると申したであろう?」
 こちらへと手招きされ、紫蘭は近づいた。顔を近づけると、皇帝は唇で紫蘭の溢れる涙を吸い取った。
「長訓」
 皇帝が信頼している宦官を呼んだので、紫蘭は慌てて離れた。まだ二十代半ばの宦官は皇帝に即位前から仕えていた。いわば不遇な皇子時代から皇帝の側にいたということでもある。
「長訓、あれを」
 それだけで判るのか、長訓は一礼して室を出ていき、ほどなくしてまた戻ってきた。
「皇后に渡してくれ」
 皇帝の指示で、長訓から恭しく渡されたのは薄桃色の巾着であった。中を覗くと、玉佩が入っている。出てきたのは桜を象った玉の飾りにピンク色の房が長く垂れている帯飾りであった。桜はピンクの風信子石(ジルコン)が花びらにはめ込まれ、葉の部分は翡翠だ。
「今まで色々と贈ったが、装身具はあまり歓んで貰えなかった。いつかそなたは桜も好きだと言っていたから、花の好きなそなたなら少しは歓ぶのではないかと用意させていたんだ。今年は何とか間に合ったようだ。誕生日、おめでとう。紫蘭」
 こんなときなのに、誕生日も何もないだろうに、このひとは私の生まれた日を憶えていてくれていた。心に言いようのない嬉しさと哀しさが渦巻いた。
「あなた―」
 涙声で呟くと、皇帝が笑った。
「初めて呼んでくれた。妻が夫を呼ぶように」
 もう一度、呼んでくれ。皇帝が眼を閉じて言う。もう、眼を開けていることもできないのだ。紫蘭はもう溢れる涙を拭うこともせずに幾度も呼んだ。
「あなた、私の大好きな大切なあなた」
 皇帝は満足げに微笑み、幾度も頷いた。
「これでやっとそなたを自由にしてやれる。だが、悔いはない。短い間だったが、そなたと暮らせて幸せだった」
 ―済まなかった。
 それが紫蘭の聞いた最後の科白となった。皇帝はほどなく再び昏睡状態に陥った。
 その夜半、皇帝の容態は急に悪化して明け方を待たずして崩御した。皇帝が負傷して以来、ずっと側に付いていた紫蘭は物言わぬ良人の身体に取り縋って号泣した。
「あなたまで私を残して逝ってしまいになるのですか?」
 まだ私はあなたに大切なことを何も伝えていないのに。今はこの胸の想いを告げなかったことが悔やまれてならない。ただひと言で良いから、あなたに伝えれば良かった。愛しています、と。