涙する香花に薄幸だった遊女の母を重ねる光王。義母への怒りが燃え上がり 小説 月下にひらく華 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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最終話 漢陽の春


「一体、どういうおつもりでしょうか? 父上は、私に香花というれきとした妻がいることはご存じのはず。なのに、今更、許婚者だか妻だか知りませんが、別の女を押しつけてくるとは。そのようなご質問をなさるということは、父上もまた義母上と同様、私に香花を棄て、あの高慢な両班女と一緒になれと?
 それとも、私の香花への想いをお知りになりながら、私をからかっていらっしゃるのでしょうか」
 真悦が真顔になった。
「いや、済まぬ。ちと戯れ言がすぎたようだ。許してくれ。儂は光王、香花をとっくに嫁と認めておるし、今になって別れろなどと野暮を申すつもりはない」
「ですが、義母上のお考えは違うようですね」
 冷淡に言ってのけた倅を、真悦は溜息をついて見つめた。
「義母(はは)はいまだに和真が忘れられぬのだ。せめて和真に嫁すはずだった彩景をそなたの嫁に迎えたいのであろうよ」
「子を喪った母親の悲嘆は判ります。しかし、それとこれとは全く別だ! 父上、私は義母上の感傷のために、香花と別れるつもりは一切ありません。もし、父上までもが香花と別れろとおっしゃるのなら、私は香花を連れてこの屋敷を出ます」
「光王―」
 真悦が痛みに堪えるような眼で息子を見つめたその時、扉の向こうで甲高い声が響いた。
「光王どの、そなたは、お父上を脅迫するおつもりか? 香花を手放したくないあまりに、お父上を脅迫紛いの言葉で脅かして―」 言葉と同時に、妙鈴が姿を見せた。
 両手に小卓を捧げ持っているところを見ると、真悦に茶でも運んできたようだ。
「脅迫ではございませぬ。真実を申し上げただけにございます。いつから、そこにおいでになっていたのかは存じませんが、それなら話は早い。私の言い分はすべてお伝えできたことでしょう、義母上」
 皮肉げに〝義母上〟と呼ばれ、妙鈴の細い眉がかすかにピクリと動いた。
 普段、妙鈴に対する際、光王は絶対に〝義母上〟とは呼ばない。こう呼ぶのは、あくまでも父である真悦を立てる意味で、彼のいる場所でだけだ。
「義母上は香花の身分がどうのと拘られますが、仮にも両班家の奥方ともあろう女人が廊下で立ち聞きとは、あまり褒められたものではございませぬな」
「な、何と」
 妙鈴が言葉を失った。
「義母上、人の価値とは果たして貴賤の別だけで決められるものでしょうか? たとえ身は綺羅を纏い、数え切れぬほどの玉で身を飾り立てたとて、心賤しき人はどこにでもいるものです。いや、むしろ、中身のない、つまらない人間だからこそ、外見に拘り必要以上に見栄を張ろうとするのやもしれません。裏腹に、襤褸を纏うその日暮らしの民の中にも、心ある者はおります。私は、そういった者の方こそが真の人間といえるのではないかと常々、考えております」
 滔々と述べ立てる光王を、妙鈴は唖然として見つめていた。紅をきれいに塗った薄い唇が小刻みに戦慄(わなな)いている。
「そ、そなたは一体、何が言いたいのだ?」
 暗に妙鈴のような華美贅沢に耽る者こそが心の賤しい人間だと指摘されたのだ。気位の高い妙鈴にはさぞ痛烈な皮肉となったに相違ない。現に、彼女の細い眼はつり上がり、まさに夜叉のごとくの形相と化している。
「私の申したきこと? そのようなこと、ご賢明なる義母上でおわせば、申し上げずとも千万、ご承知でしょう。人の価値というものは身分で決まるのではなく、心の持ち様で決まると申し上げているのでございます。その点、良人の私が申すのも妙ですが、私の妻の香花は誰よりも心の美しく、優しき女です。あのような者を生涯の伴侶として得たことを、私は誇りにも果報にも思っております」
 その時、それまで黙って二人のやりとりを静観していた真悦が初めて口を開いた。
「光王、もうその辺で良いのではないか。いかにそなたとて、義母(はは)にそれ以上申すのは許さぬ。口を慎みなさい」
 妙鈴は確かに立場的には光王の義母なのだ。光王はまだ言いたいことは山ほどもあったが、ここは父の言に素直に従った。
「私としたことが、いささか口が過ぎたかもしれません。ご無礼がございましたら、どうかお許しを、義母上」
 光王は殊勝に頭を下げた上で、今度は父に向き直った。
「されど、父上。先ほども申し上げましたように、香花は私が生涯にただ一人と心に思い定めた女です。たとえ誰が何と言おうと、私は香花を手放す気はございません」
「その件については、いずれまた機会を改めて話し合うとしようではないか」
 真悦がとりなすように言う。
 何しろ妙鈴ときたら、まだ興奮冷めやらぬらしく、唇を震わせているのだ。よほど光王の言葉に憤慨しているのだろう。だが、真実そのものをズバリと言い当てられたからこそ、余計に腹立たしいのかもしれない。
 もっとも、妙鈴に人の価値は心の持ち様で決まるなどと幾ら説いてみたところで、心に届くはずもなく、理解できるはずもないが。
 妙鈴の取り乱し様からしても、真悦が話し合いの場を改めて設けると言ったのは、まさしく適切な処置だと思われた。
 しかし、光王はここで引き下がるつもりはなかった。
「何を話し合う必要があるとおっしゃるのでしょう?」
「光王!」
 珍しく真悦が声を荒げた。
「それでは、父上もまた義母上と同じお気持ちだと? 香花はこの家の嫁としては認められぬと仰せにございますか!?」
 光王もまた挑むような眼で父を見据える。
「儂は何もそのようなことを申しておるのではない。ただ、今は皆、三人共に気が昂ぶっているゆえ、後日、落ち着いたところで話そうと申しているだけだ」
「父上は私に香花を棄てろと仰せにございますか! 父上が母上をお棄てになったように、私にも香花を棄てろと、そう言われるのか」
 光王は膝の上に置いた両手を固く握りしめた。そうしなければ、大声で喚いて、部屋中にあるものを片っ端から壊してしまいそうだ。―それほどまでに口惜しかった。
「父上に対して、それはあまりに無礼ですよ、光王どの」
 妙鈴が甲高い声を上げた。
「良いのだ、夫人(プーイン)。儂がこれの母親に対してしたことは、そう言われても仕方のない所業なのだ」
 その言葉に、妙鈴が鼻白んだように押し黙った。二十九年前、真悦に意中の妓生がいると知った時、妙鈴は両親や乳母の前で見苦しいほど取り乱し、半狂乱になった。
―お願い、父上、母上。何とかして。私は真悦さまを心からお慕いしているの。あの方でなくては駄目なのです。
 そのひと言が愛し合っていたひと組の恋人たちを無惨にも引き裂いたのだ。彼女の父は真悦の父に対し、息子と妓生を即刻別れさせと迫り、それができなければ、国王へのとりなしもしないと半ば脅迫紛いのことまでやってのけた。
 当時、真悦の父は国王に上訴してその逆鱗に触れ、謹慎を命じられていた。そのとりなしを国王お気に入りの臣である妙鈴の父に頼んでいたのである。
 妙鈴を我が子以上に溺愛していた乳母は、お嬢さま大事の一心から、妓房に乗り込み、何と妓生―ヨンウォルに直談判に及んだのだ。
―身持ちの悪い妓生の孕んだ子など、誰の種か知れたものではない。
 ヨンウォルに言い放ち、あろうことか、その言葉を真悦自身が言ったと告げたのだ。
 妙鈴にも流石に、自分が真悦とヨンウォルを別れさせたのだという自覚はあった。が、それが悪いことだとは露ほども思ってはいないし、むろん、後悔もしていない。
 あの泥棒猫のような女が真悦を自分から奪おうとするから、当然の報いを受けたのだと今でも信じて疑っていない。
「私の母がどのような想いでいたか、私には知るすべはありません。でも、亡くなる直前まで、母は父上に対して恨みがましいことは一切口にしませんでした。誰をも恨まず妬まず、ただ、こうなったのは己れの宿命(さだめ)なのだと従容と受け容れ、日々を精一杯に生きていました。父上、私は香花を見ていると、亡くなった母上をしきりに思い出すのです。宿命を恨みもせず、受け容れた上で雄々しく生きてゆこうとする香花の姿に、懸命に生きようとしていた母上を見るのです。―私には、到底、香花と別れることなど考えられない」
「控えよ、光王ッ」
 突如として、妙鈴の憤怒に満ちた声が光王の言葉を遮った。
 光王は感情の一切を消したような冷え冷えとした視線を義母に向けた。
「先刻、私は母の気持ちがいかようであったかは判らないと申し上げましたが、義母上、私が母ならば、絶対にあなたを許さない。あそこまで私の母を追いつめる必要があったというのですか? 母はあなたを蹴落として妻になりたいだなどと大それた望みを抱いてはいなかった。ただ父上を愛していただけなんだ。その、どこがいけなかった? 母は妓生だ、生涯、廓から出られない宿命だということくらいは、あなたにも判っていたはずでしょう。母はただ時折、父上が妓房に通ってきて、顔を見られたら、それだけで良かったんだ。多くのものを望みもせず、ひたすら堪えていた母をあなたはどん底に追い落とした!」
 光王は叫ぶと、それでも一礼することだけは忘れず、身を翻した。
 とうとう、言ってしまった。けして口にすることはないだろうと思っていた言葉の数々を吐き出した。
 光王の瞼に、亡き母の儚げな笑顔が甦る。百合の花を彷彿とさせるような気高い凜とした美しさを持ったひとだったのに、現実には彼女の辿った運命は酷いものだった。彼女は夜毎、別の男に脚をひらく―自らの身体をひさぐ生業(なりわい)、妓生として生きていくしかなかったのだ。
 早朝、まだ東の空が白み始める頃、ひそやかに部屋に戻ってきた母が声を殺して泣いている姿が今も脳裡から離れない。か細い身体を震わせ、すすり泣く母の後ろ姿は幼い彼の記憶に哀しい想い出として鮮烈に灼きつけられていた。
 母の無念を漸く口にすることができたというのに、光王の心は一向に晴れなかった。今になって、口にしても、母は二度と帰らない。むしろ、自分が余計なことを口走ったことで、父への恨みも憎しみも抱かず、淡々と流れるように生きていた母の浄らかさを汚してしまったようにさえ思えてならない。
 母はあの世で、この顛末をどう思っているだろう? 二十九年前の罪を今更暴き立て、恨み辛みを口にしたところで、かえって自分や光王の方が空しくなるばかりだと嘆いているのではないだろうか。
 だが、言わずにはいられなかった。母だけでなく、今度は愛する女―香花までをも追いつめようとする義母が憎くてならなかったのだ。
「お袋(オモニ)」
 光王は呟くと、不覚にも湧いてきた涙を手のひらでこすった。