健気に耐える香花をなおさら愛しく思う光王。怒りは理不尽な仕打ちをする継母に 小説 月下にひらく華 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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最終話 漢陽の春


「そりゃあもう、私が見ましても、思わず微笑みたくなるような仲の良さでした。ですから、坊ちゃまが身罷られた際、彩景さままでもが後を追ってしまわれるのではないかと案ずるほど嘆かれたのも当然のことのように思えましたよ。あれほど心から慕っておられた坊ちゃま以外の男に嫁ぐ気にはなれない―というお嬢さまのお気持ちは判ります」
 それは初めて聞く話だった。亡くなった異母弟に沈彩景という婚約者がいたという話は知識としてあったものの、そのような複雑な内輪話は一切与り知らぬ話だったのだ。
 話そのものとしては同情に値するし、不幸な境涯を背負った娘だとは思うが、その娘の存在が自分に拘わってくるとなると、また別次元のことになる。
「解せない話だな。彩景の身の不運はよく判ったが、何でそれがいきなり俺と拘わってくるんだ」
 ですから、と、執事がいっそう声を潜めた。
「彩景さまのご両親がこちらの奥さまに頼み込まれたんです。何とかして事を分けて、彩景さまにどなたかの許に嫁ぐように話して説得して欲しいと。何なら、いっそのこと、新しく迎えるご長男の嫁として迎えてやって欲しいとまで言い出されたんですよ」
「何てことだ、何でそうなる?」
 光王は低く呻き、天を仰いだ。
 執事は珍しく困惑を露わにしている光王を面白そうに眺めている。いつも冷めた眼でおよそ感情を示したことのない光王が本気で落ち込んでいるのがとにかく珍しいのだ。
「でもね、若さま。これは、そんなに愕くほどの話じゃありませんや。両班家では、兄が亡くなって、既に妻帯していた場合、そのまま嫂が弟の妻に直るってのは珍しいわけではないんです。無駄な感情のもつれとか、家督争いを避ける手段でしょうが、長男が亡くなれば、自動的に次男が跡取りになりますからね。結局は、そうすることが万事丸くおさまる方法ってわけですよ」
 ましてや、彩景さまはまだ坊ちゃまとは正式に婚礼を挙げたわけではなかったんですから。
 ニヤニヤして付け加える執事を、光王は烈しい眼で睨んだ。
「煩いッ。生命が惜しくば、そのお喋りな口を閉じておいた方が賢明だぞ?」 
 彩景の両親に縋りつかれた妙鈴は、最初は全く取り合わなかった。当然だろう、憎い妾の子に亡くなったとはいえ、大切な我が息子の嫁になるはずだった彩景を娶せるなど。
 妙鈴は最初、良人真悦がヨンウォルの生んだ光王を息子として引き取ることに猛反対していた。
―あのような賤しい女の子が我が家門を継ぐなど、到底我慢なりません。
 それなら、いっそ、成家の遠縁から養子を迎えた方がマシだと主張する妙鈴には真悦もほとほと手を焼いたらしい。
 が、どういう心境の変化か、妙鈴は最終的に良人の意に賛同した。その裏には、自身の息子の許婚者だった彩景を光王に娶せるという条件が付いていたのだ。その頃、当然ながら、真悦はまだ光王の妻―香花の存在を知らなかったのだから、その条件を呑むことで妻を納得させられるのなら、歓んでそうしただろう。
 心得顔で得々と語る執事に、光王は真面目な表情で言った。
「だが、父上は一体、どういうおつもりなのだ? 俺を迎えにきた時、俺に香花というれきとした女房がいるのを知っても、父上はそんな条件のことは一切話さなかったぞ」
「まあ、彩景さまのことは、あくまでも口約束でしたからね。こちらへお迎えする時期にしたって、坊ちゃまの喪が明けてから、改めて婚礼をなんて話でしたもの。すべてが曖昧なままの取り決めで、実のところ何も決まっちゃいなかったんです。旦那さまも、このまま奥さまが黙って事態を静観しているとばかりお思いになったんじゃありませんか? 幾ら強引―もとい、強気の奥さまでも、既に決まった方がおられるのに、その方を追い出してまで彩景さまをお迎えになるなることはないと存外、高を括っておいでになったのでは?」
 執事の言う〝既に決まった方〟というのが香花だとはすぐに理解できる。
 思案に沈む光王を、執事は少し同情のこもった眼で見た。 
「でも、何を思われたか、奥さまが今年になって、若さまの姿絵を沈家にお送りになられて。それをご覧になったお嬢さまはひとめ見るなり、〝和真さま〟と言葉を失われ、姿絵を胸に抱いて、はらはらと落涙されたといいます」
 それが今回の彩景のいきなりの登場に繋がったのだとは光王だとて容易に想像がつくというものだ。
「―執事(イボゲ)、俺はそんなに弟に似ているか?」
 ふと零れ落ちた疑問に、執事が頷く。
「確かに、よく似ておられます。私もこうして若さまとお話していると、亡くなられた坊ちゃまがお帰りになったとふと、錯覚しそうになるほどですからね。坊ちゃまは若さまほど精悍な感じはしなかったですし、こう申し上げては何ですが、眼の色も髪の色も全く違うんです。なのに、ひとめ見た時、私は〝坊ちゃま〟と呼んで、若さまに駆け寄ろうとする自分を抑えるのに精一杯でした。―良い方でしたよ。私は坊ちゃまが産まれたときから、ずっと知ってますから。まだ赤ン坊だった坊ちゃまを抱っこして差し上げたこともあるし、よちよち歩きを始めたばかりの頃も知ってます。五、六歳になられてからは、この庭で坊ちゃまにせがまれて、相撲を取りました。何で、将来のある若い方が先に亡くなって、私のような役立たずの年寄りが後に残るんでしょうかねえ。二年前に坊ちゃまがお亡くなりのときは、随分と天を恨めしく思いました」
 執事の口調は、仕えた主家の息子に対するというよりは、実の息子か孫を懐かしむようなものだった。彼がいかに亡くなった和真を可愛がり大切に思っていたか窺える。
「そなたは弟を可愛がっていたのだな」
「可愛がるだなんて、滅相もない。坊ちゃまはあくまでも旦那さまのお子で、この家の跡取りでいらっしゃった方です。私は、ただの使用人にすぎない身です」
 執事の立場では、こう言わざるを得ないだろう。それは、光王にも判った。
「ありがとう(コマオ)。そなたの話が聞けて、良かった。先刻は話を聞くためとはいえ、脅したりして済まなかった」
 光王がいつになく真摯に言うと、執事は細い眼をしばたたいた。
「良いんですよ。こちらの旦那さまにとっては、最早、若さまだけが頼りです。坊ちゃまがお亡くなりになってから、旦那さまは一辺に十以上歳をお取りになったようにお見受けします。どうかこの家に根を下ろして、立派な跡継におなり下さい。私も至らない身ではありますが、若さまの代まで我が息子共々心を込めてお仕えさせて頂くのを愉しみにしておりますよ」
 人の好い執事の皺深い眼には、光るものがあるようだ。
 光王は執事の両手を取ると、押し頂くように軽く持ち上げた。
「俺は育ちが育ちゆえ、両班の世界のことなど何も知らない。長らく当家に仕えてくれたそなたが傍にずっといてくれれば、どれほど心強かろう。弟の分まで、俺を助けてくれ」
「勿体ないお言葉です。今日からは、誠心誠意、若さまにお仕えさせて頂きますよ」
 執事は幾度も頷き、深く頭を下げた。
 この時、父真悦と香花以外は誰も信頼できる人のいない成家で、光王は初めての理解者を得たのだった。
 
 執事の語ったとおり、どうやら、女中たちが話していたのも彩景の登場についてのようであった。彼いわく、もう、屋敷中、その話でもちきりだという。
 義母の腹は判らないが、光王は怒りのあまり、あの取り澄ました高慢女を殴り飛ばしてやりたいとすら思った。もちろん、光王は基本的に凶暴でもないし、ましてや、か弱い生きものである女性に手を上げるのは野蛮な男のすることだと思っている。それだけの分別は持っているつもりだ。
 しかし、今回ばかりは、どうにも激情を抑えかねた。何故、あの女は、弟の許婚者を今になって呼び止せたりしたのか。しかも、わざわざ自分の姿絵を送りまでして、彩景の心を動かす必要があったというのだろうか。
 光王が最も許せないのは、このことで、他ならぬ香花を追いつめてしまったということだった。光王と香花は既に婚礼も挙げ、正式な夫婦となっている。なのに、ちゃんとした妻のいる男の許に、更に新たに〝妻〟を送り込んでくる妙鈴の神経が知れない。
 苛立つ気持ちを無理に鎮めるようにわざとゆっくり時間をかけて歩き、香花の部屋の前に立った。
 耳を澄ませると、人の気配がする。もっと静けさに馴れると、かすかに聞こえてくるのがすすり泣きだと判った。
 畜生!
 光王は内心で毒づき、酷い罵声の言葉を妙鈴に上げ、廊下へと続く階(きざはし)を駆け上る。急いで両開きの扉を開けた。
 突然現れた良人に、打ち伏していた香花の肩がピクリと震える。弾かれたように面を上げた妻の眼に宿った涙を彼は見落とさなかった。冴え冴えとした黒い瞳に雫が露のようにきらめいている。
 案の定、彼の美しい新妻は一人でひっそりと泣いていたのだ。
「香花!」
 光王は堪らなくなって、香花を抱きしめた。
「何を泣いているんだ?」
 優しく問いかけても、香花は黙って首を振るばかりだ。香花の性格からして、義母の悪口を得々と語るような女ではないことは判っている。香花であれば、むしろ、自分の不用意なひと言が起こす波風を思い、何があっても光王には話さないだろう。―そういう女だ。
 だからこそ、そんな女だからこそ、彼は香花に惚れたのだ。この女以外には、もうどんな女も要らないと思うほどに強く惹かれた。
「泣いていたんじゃ、判らない。俺の前でも泣くことなんて滅多にないお前がどうして、そこまで泣いてるんだ?」
 何か、よほどのことがあったんだろ。
 光王の言葉に、香花がハッとしたような表情になる。その大きな瞳にまた、大粒の涙が浮かんだ。誰よりも大切だ、守りたいと願う女の涙は、光王の心を大きく揺さぶった。 

―何か、よほどのことがあったんだろ。
 優しく問われ、香花は一旦は止まりかけていた涙が再び滲んでくるのを自覚した。
 気遣われている。心配をかけている。そう思えば思うほど、何か光王を安心させる言葉を口に乗せなくてはならないと思うのに、肝心の言葉が出てこない。
「何でも、ないの」
 漸く返せた言葉は、実に短いものだった。我ながら、何とも能のないことだと思うけれど、下手に言葉を重ねれば、勘の鋭い彼に嘘を見抜かれてしまう怖れがある。だから、かえって何も話さない方が良いかもしれない。
 そんなことをつらつらと考えていると、先刻まで頭上から降ってきた声が、今度は耳許に迫ってきた。
「―嘘だな」
 香花が、ふと我に返って身を捩ると、彼女を腕に抱きしめていた光王がいっそう顔を接近させている。彼の唇が、香花のやわらかな頬に今にも触れそうだ。
「お前は、いつも嘘をつくのが下手だ。応えが顔に書いてあるような、あからさまな嘘をついて、どうする? どうせつくなら、もう少しマシな嘘を考えた方が良いぞ?」
 からかうように言われ、香花は笑った。
「そうね。確かに、あなたの言うとおりだわ、光王。最初から見抜かれる嘘なんて、嘘とは言えないものね」
「つまり、お前は嘘のつけない質(たち)の女ってことさ」
 光王は声を低め、香花の耳許に唇を寄せる。殆ど彼の唇が耳を掠める至近距離だ。
「だが、俺はお前のそういう正直さを好もしいと思う」
 声だけでなく熱い吐息までもが耳朶をくすぐり、香花は思わず鼓動が速くなる。
 彼女の反応を愉しむかのように、光王は眼を細めて眺めていたかと思うと、やがて、その唇が束の間、彼女の頬をかすめた。