頭中将の別邸に匿われた姫。彼の訪れを心待ちに。。小説 無垢な姫君は二度、花びらを散らす | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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 伍の巻

 遠くから、せせらぎの音が聞こえてくる。
 公子は夢の中で、その川の流れる音に耳を傾けていた。
 公子の回りには一面の白い花が揺れている。懐かしいこの花は、そう、雪柳。
 公子が生まれ育った左大臣家の庭にも咲いていた。
 風が吹く度に、たっぷりと花をつけた枝が水底(みなそこ)の藻のようにそよぐ。頭上高くで小鳥の鳴き声が響き、公子は空を見上げた。
―あれは何の鳥かしら。
 そんなことを考えながら、鳥の囀りに耳を澄ませてみる。
 優しいせせらぎは昔、眠りに落ちる前に乳母が聞かせてくれた子守唄に似ている。
 こんなに穏やかな心持ちになれたのは、久しぶりのような気がする。満ち足りた気持ちでなおも鳥の唄とせせらぎの音に聞き入っていた。

 めざめは突然、訪れた。
 意識がゆっくりと浮上してゆくような感覚があり、次いで深い水底から突如として陸(おか)へと引き上げられたような気がして、公子は眼を開く。長い翳を落とす睫が細かく震え、黒眼がちな大きな瞳がぱっちりと開いた。
 ぼんやりとしていた視界の中で、徐々に周囲の景色が明確な形を取り始める。撫子と萩の描かれた几帳が眼に入り、けして広くはないけれど気持ちよく整えられた室内が見えてくる。贅を凝らしたとはいえないまでも、いかにも女人の住まいらしく、こざっぽりとした中にも華やかさのある作りだ。
 公子は自分が文机にうつ伏せて微睡んでいたことに気付く。どうやら、草紙を読み耽っている最中に、うたた寝をしてしまったらしい。
 公子は更に手前に誰かがいるのを認め、ハッと我に返った。もしや―、都からの追っ手ではと、緊張を漲らせた公子の耳に、もうすっかり聞き慣れた男の声が心地良く響く。
「済まない。折角お昼寝なさっていたところを起こしてしまったかな」
 この男(ひと)の声を聞くと、どんなに不安に苛まれているときでも安心できる。親鳥の大きな翼に抱(いだ)かれた雛鳥のように安らいでいられる。
 途端に公子の身体中の力が抜けてゆく。
「おいでになっていらっしゃましたの?」
 公子が言うと、男は微笑んだ。
「ええ、かれこれ四半刻前にこちらに着きました」
「申し訳ございません、私ったら、公之さまがおいでになられたのも知らずに、ずっと眠っていたのですね」
公子は申し訳なさで一杯になる。
 都からはるばるこんな場所まで訪ねてきてくれた公之にも済まないと思うし、十日に一度ほど訪れる公之の貌を見るのが今ではいちばんの愉しみになっている。ほんの少しの時間でも多く公之の貌を見ていたいと思ってしまう。
 むろん、そんな胸の内を当人の前で打ち明けることはできないけれど。
「いや、姫の可愛らしい寝顔をずっと飽きもせずに眺めていたゆえ、お陰で有意義な時間を過ごせました」
 その科白に、公子の頬がうっすらと染まった。
「酷い、私、きっと変な顔をして眠りこけていたのではないですか? 起こして下されば良かったのに」
 寝顔を公之にずっと見られていたのかと思うと、あまりの恥ずかしさに消え入りたい心地になってしまう。
 公子が恨めしげに言うと、公之は声を立てて笑った。
「そんなことはありません。とても魅力的な可愛い寝顔でしたよ」
「あのう、何か寝言などは申しておりませんでしたか?」
 公子が少しの逡巡の後、訊ねると、公之が少し意地悪げな表情になった。
「うーん」
 と、これはわざとらしく両の腕を組んで思案顔になるのに、公子は不安げな顔で公之を見つめる。
「そうだな、そう言えば、何か言っていたような」
 思わせぶりな口調で言い、ちらりと公子を一瞥する。
「私、何を言っていたのでしょう?」
 公子が固唾を呑んで次の言葉を待っていると、公之が勿体ぶって言う。
「ああ、思い出しました。姫は確か、私のことが好きだとか何とか、そんなようなことをおっしゃっていたように思います」
「えっ」
 公子が固まった。先刻以上に、もう見ているのも可哀想なくらい真っ赤になる。
「私がそんなことを寝言で―?」
 公之が来たのにも気付かず眠りこけていて、その上、そんな馬鹿げた寝言を口走っていたなんて―。恥ずかしくて、死んでしまいたいくらいだった。
 身の置き場もない心地で、あまりの恥ずかしさにじんわりと涙さえ出てきた。
「姫、もしかして―、泣いているのですか?」
 公子の涙に気付いた公之が狼狽える。
「いや、姫。今のはほんの悪戯心を起こしたまでのこと、まさか姫が本気になさるとは思わなかったのです。今の言葉は全部出任せですよ、だから、どうか泣くのは止めて下さい」
 根が正直な公之は、公子の涙を見ただけで慌てふためいている。正直者のくせに、こうやって公子をからかっては泣かせてしまうのは公之の悪い癖であった。
「本当に? 本当に私、何も言ってなかったですか」
 公子がなおも疑わしげに訊ねると、公之はコクコクと幾度も頷いた。
「大丈夫、ご安心下さい。姫は何も寝言なんかおっしゃっていませんでしたよ。その、今の科白は私の願望というか夢のようなものでして」
「え―?」
 公子が小首を傾げると、公之は曖昧な笑みを浮かべた。
「いや、良いのです。つまらない独り言ゆえ、気になさらないで下さい。それよりも、私がお持ちした草紙はいかがでしたか?」
 唐突に話題を変えた公之の不自然さにも気付かず、公子は頷く。
「はい、〝落窪物語〟―、とても面白うございましたわ」
「それは良かった。当代きっての博識家と評判の姫に女子どもの読む草紙物語なぞお持ちしても、つまらないと思われるのではと心配していたのですよ」
「いいえ、とても面白くて、刻の経つのも忘れてしまいます。正直に言いますと、実は昨夜もずっと眠らずに起きて読んでおりましたの。それで、つい、今頃になってうたた寝をしてしまったのです」
「それは良かった。しかし、お寝(やす)みにならないで一晩中、物語を読んでいたというのは、あまり感心できませんね」
 公之が軽く睨むと、公子はまた頬を赤らめてうつむいた。
「ごめんなさい、これからは気をつけますわ」
 〝落窪物語〟は、継母に苛められる貴族の姫君の話である。紆余曲折はあるものの、姫君は最後には両想いになった恋人とめでたく結ばれ、幸せになるという物語だ。
 この頃、都ではこの〝落窪物語〟が貴族の女性たちの間で大人気だという。
「本音をいえば、姫のお好きな漢籍などをお持ちできれば良いのですが、何しろ、伯父の手前、あまりあからさまに書籍を持ち出すことはできませんからね」
 当代きっての学者と名高い文章博士紀伊公明は、何を隠そう、この公之の伯父になる。公子自身、この公明にずっと師事していたゆえ、最初に公之からその話を聞いたときは、偶然とはいえ師匠の甥に助けられたことに随分と愕いたものだ。
 紀伊家は代々、学者の家柄で文章博士を輩出してきている。だが、公之自身は幼時から学問よりは武芸に興味を持ち、机に向かうよりは専ら庭で刀や弓を手にしている方が性に合っていたのだと、これは公之当人が笑いながら話したことである。
―私はいわば、紀伊家の落ち零れですよ。
 自嘲気味に言う公之ではあるけれど、十八で従五位蔵人に任じられ、蔵人所での働きと有能さが認められ、三年前、四位・蔵人頭に抜擢されたという経緯を持つ。禁裏ではその官職にちなんで〝頭中将〟と呼ばれていた。
 ちなみに蔵人所とは帝と密接な繋がりを持ち、常に帝の近辺に侍り、帝のご意思を各方面に伝え、逆に、廷臣たちの奏上を帝に伝えるという役目を持つ(伝宣・進奏)。いうならば、帝と外部との間を取り持つ仲介役のようなものである。
 また儀式・その他宮中の大小の雑事を掌る。ゆえに蔵人自体はけして上位の官職ではなかったものの、常に帝の近くに控え、帝とも親しく話をしたりすることから、重要かつ官吏たちにとっては憧れの役職と見なされていた。
 公之は公子の前でも帝の話はしない。仕事で帝の御前に出ることも多い公之ではあるが、公子と帝の複雑な拘わりを何よりもよく知る彼は、けして公子に帝の話について触れようとはしなかった。
 公之自身が帝を仕える主人として、どのように見ているのかは判らない。ただ、帝その人を尊敬しているというよりは、蔵人所の仕事をするのが自分の仕事だからと割り切って、極めて淡々と日々の務めをこなしているように見えた。
 公之は伯父の公明にすら、公子をこの宇治の別邸に匿っていることを打ち明けてはいない。思慮深い公明であれば、万が一知れても、情報を帝や公子の父道遠に横流しはしないだろうが、やはり、公之にすれば、できるだけ伏せておいた方が良いと言う。それに、これは口には出さないけれど、もし、この秘事が露見した際、伯父までに累が及ぶのを怖れているに相違ない。
 帝の想い人、寵愛の女御を攫い、己が別荘に隠した―、それだけではや帝に対する不敬罪に値する。もし人の知るところとなれば、公之はただでは済まないだろう。つまり、公子は公之にそれだけの犠牲を強いているということになる。それを考える時、公子は申し訳なさで居たたまれなくなる。
 しかし、現実として、公子はどこにもゆく当てもなく、寄る辺なき身であった。公之に危険なことをさせていると知りながら、こうして手をこまねいているしかない。
 それでも、公之は公子に対する気遣いを忘れない。伯父の公明の住まいには古今東西から集められたありとあらゆる本が蔵書として保管されている。公之は伯父の許から公子の気慰みにと本を持ち出し、訪れるときには大抵、何冊かの本を持ってきてくれた。
「それでなくとも、これまで書物なぞにとんと興味のなかった私が頻繁に本を借りてゆくものゆえ、伯父上は何かあると怪しんでいるようです。ましてや、漢籍など持ち出せば、何か勘づかれないとも限らない。まあ、女子どもの読むような他愛もない物語であれば、伯父もまさか、姫がお読みになるのだとは思いもしないでしょうからね」