帝の執拗に迫られ、逃げる姫君。嫌いな男を拒めるのか?小説 無垢な姫君は二度、花びらを散らす | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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「そなたは、それほどまでに俺を嫌うか」
 低い、地獄の底から響いてくるような、地の底を這うような声。
 今の公子には、ただただ、この男のすべてが怖ろしかった。
 唐突に沈黙が訪れた。
 気詰まりな静寂はどんどん重たさを増し、公子はその重みに圧迫感を感じる。
 何を考えているのか、帝は感情の読み取れぬ双眸を公子に注いでいるだけだ。公子の身体の震えはますます烈しくなってゆく。
 耳が痛くなるような長い、長い静寂の後、彼の眼の険しさに公子はふと息を呑む。
 凍てつく冷たさと煮え滾(たぎ)る焔のような烈しさ、真反対の感情が同時に宿る瞳。こんな眼をした男を、公子は生まれて初めて眼にした。
「俺はそなたを憎んでいる―、だが、同時に、そなたを愛しいと思う気持ちも確かに俺の心の中に存在しているのだ」
 そう、十五年前、初めてめぐり逢ったその瞬間から、彼はこの女に心奪われた。いつも刃向かい、堂々と臆せずに物を言う少女に対する複雑な想いを抱えて成長した。
 大抵の娘なら、帝という立場、あまつさえ、これだけの容貌と優雅な物腰の彼に見つめられれば、おどおどして眼を伏せるか、頬を上気させて恥ずかしげに微笑むのに、公子は幼い中から明らかに他のあまたの女たちとは違っていた。そのことに帝は烈しい反感と誇りを傷つけられた苛立ちを感じながらも、興味を持ち、次第により強く魅せられていったのだ。
 湿った声が耳許で囁く。
「どうすれば、意地張りのそなたを大人しくさせ、素直に服従させ跪かせることができるのであろうな」
 燃え尽きかけた蝋燭の焔が乾いた音を立て、公子の翳を奇妙に揺らす。
「一向に懐こうとはせぬ獲物を手なづけ、屈服させ飼い慣らすのも、また愉しいものだ。だが、俺の我慢にも限度がある。抵抗されるとは思っていたが、まさかこれほどまでとは思わなかった。さて、いかに言い聞かせても判らぬというのであれば、力づくで従わせるしかないな」
 くっくと低い声で、さも愉しげに嗤う。
 その凍りつくような声は、真冬に吹き荒れる吹雪のような冷たさを孕んでいる。
「それとも、誰か他に好きな男でもいるのか?」
 改めて問われ、公子は小さく首を振る。
「そのような方はおりませぬ」
 消え入るような声で応える公子を、帝は烈しいまなざしで見据えた。
「それなら! 何故、俺をそこまでして拒む」
 公子は懸命な面持ちで帝を見上げた。
 涙に濡れた美しい女の瞳―、潤んだ瞳が燭台の明かりを受けて揺れている。
「そんな眼で見つめられては、男はひとたまりもない。そのことに、そなたは気付いてもいないというのか」
 帝の呟きはあまりにも低く、公子にはついに聞き取れることはなかった。
 公子は縋るような瞳で帝を見つめ、一生懸命に言う。
「叔母上さまは、このことを承知なさっておられるのございますか?」
 帝が悠然と笑った。
「ああ、母上も殊の外お歓びだ。何しろ、そなたの父と母上は血の繋がった兄と妹。本来なら、そなたは私の后がねの第一の候補として名が挙がるはずの身。これまでそんな話が一度も出なかったのは、そなた自身が自分は一生嫁がぬと決めていたからであろう? だが、そなたはもう、そのような悲観的なことを考えるような必要は微塵もなくなった。俺は、我と我が身を日陰の存在で構わぬとしか考えられぬそなたを哀れにも不憫にも思うのだ。誰かの妻となり、子を生むという女の幸せを掴もうと思えば、掴めるのだぞ。幸せになれるというのなら、何ゆえ、幸せになろうとせぬ?」
「―」
 公子は唇を噛みしめた。
 公子だって、幸せになりたくないわけでもないし、自ら幸せに背を向けているわけでもない。もし、心から好きになれる男とめぐり逢えたとすれば、嫁ぐことだって考えるかもしれない。でも、―違うのだ。公子の思い描く幸せは、好きでもない男に無理強いされてその男のものになることではない。
 たとえ帝の想い者になったとしても、公子は少しも幸せにはなれない。何故なら、公子は帝を少しも好きでもないし、愛してもいないから。むしろ、めぐり逢ったそのときから、できれば顔を合わせたくないと思ってきた男なのだ―。
 しかし、いかにしても、帝を前にして胸の想いを口にはできない。
「申し訳ございません、どうか、どうかお許し下さいませ」
 公子は震えながら謝罪の言葉を口にするしかない。眼をまたたかせた刹那、溢れていた涙がつうっと頬をころがり落ちた。
「無駄だ。幾ら俺を拒もうと、そなたは俺を拒むことはできない。そなたには既に女御入内の勅命が降りている」
 刹那、公子の黒い瞳が大きく見開く。その双眸はあまりの衝撃と驚愕のあまり、凍りついたように動かなかった。
「父は、―左大臣である私の父は、そのことを承知したのでしょうか」
 それは、公子にとって最後の頼みの綱であった。縋るように見つめた公子に、帝が冷笑で応える。
「ああ、そのことなら何の心配も要らない。左の大臣はあっさりと承諾したぞ。念願の正一位太政大臣への昇進、更に内覧の宣旨を与えることを条件に、そなたの女御入内の話を歓んで受け容れた」
 公子の顔は見る間に蒼褪めた。
「そなたは実の父に売られたも同然だな、公子」
 更に追い打ちをかけるように容赦ない言葉を投げつけられ、公子の眼からとめどなく涙が溢れ続けた。
「―そんな」
 公子はあまりの事に声も出ない。
 脳天を何かでいきなり殴打されたような衝撃に襲われていた。
 顔を強ばらせる公子に気付いたのか、帝はふと笑みを浮かべた。その笑みごと近く顔を寄せ、囁く。
「何か言いたそうなようだが、訊きたいことでもあるのか」
「―あなたは卑怯な方ですね、主上」
 乾いた音が突如、部屋に満ちた静寂に響き渡り、帝の頬が鳴った。
 かすかに愕いた顔を見せた帝だったが、すぐさま無表情に戻った。
 片手で右頬を押さえ、ふっと冷たい笑いを刻む。
「そなたは当代一の学者として知られる紀伊公明ですら唸らせるほどの博識家だそうな。さりながら、大の男、文章博士をも感嘆させるほどの知恵と教養を持ちながら、その実、何も知っておらぬ。抵抗され刃向かわれれば刃向かわれるほど、かえって男はとことんまで奪い尽くし、嬲りたくなるものだ」
 十五年前、初めて帝と出逢ったその日の光景が瞼に甦る。平然と虫を踏み潰した後、あの敵意を露わにした眼(まなこ)には、ひとかけらの後悔すら浮かんではいなかった。確かに毛虫は大抵の人間が嫌うものだが、何の躊躇いもなく殺したことを他人から指摘されれば、また、大概の者はいささかなりとも良心の呵責を感じるのが普通だろう。
 この冷酷な男は、あの頃と少しも変わってはいない。虫だけでなく、一人の人間である公子をでさえ、意思を持たぬ人形であるかのように扱い、その心を無視して強引に無体なふるまいに及ぼうとしている。
―こんな男は厭!
 そう思った刹那、公子の心の内側をこの男への嫌悪が突き抜けた。
「そなたに叩かれたのは、これで二度めだ」
 帝が感情のこもらぬ声で言う。
 幼き日、雪柳の花びらが舞う庭で、やはり、こんなことがあった。あの時、帝は八歳、公子は九歳だった―。あのときも公子は〝醜女〟と心ない言葉を投げつける帝を力任せに殴ってしまったのだ。そのときのことを言っているのだと、公子にもすぐに判った。
 別段怒っているようにも見えなかったけれど、この湖のように静まり返った表情がかえって底知れず、怖ろしい。
「そなたには魔が潜んでいる。そのことに、そなたは気付いているのか? 公子」
 いきなりの言葉に、公子は眼を瞠った。
 帝の科白の意味を理解できなかったのだ。
「無邪気な虫も殺さぬ顔、可愛らしい顔をしていながら、ほれ、そのように淫らに男を誘う」
「私が男を誘う―?」
 公子は茫然と呟いた。
「そうだ、そなたは知らずにしていることであろうが、そうやって俺を拒めば拒むほど、俺はそなたを欲しい、抱きたいと思うようになる。先刻も申したはずだ、男はとことん刃向かわれれば刃向かわれるほど、獲物を征服したいという支配欲、所有欲に駆られるものだと。―それとも、何か、そなたは判っていて、わざと俺を煽っているのか、それがそなたの手管なのか」
「そんな、私は誘ってなどいません」
 何という酷い言葉だろう。
 本当に厭だから厭だと言っているだけなのに、この男はそこまで言うのか。
 尖った言葉で公子をこれでもかと言わんばかりに容赦なく徹底的に傷つけるのも昔と変わらない。
「こうなるのも、そなたがすべて悪いのだ。その無邪気な瞳、愛らしい唇で男を惑わす淫乱な女」
 帝の手がスと差し出される。掌が公子のやわらかな頬にそっと触れた。
 凍てついた手がつうっと公子の頬をすべる。思わずゾッとするほど冷たい手だ。まるで触れられたその箇所から氷と化してゆくのではないかと思ってしまうほどに。
 こんな男にはたとえ指一本たりとも触れられたくない。そう思った瞬間、思わず頬に添えられた手を振り払うと、案の定、男の顔色は濃くなり、さっと険しいまなざしになった。
「どのように申し聞かせても、俺に靡く気はないらしいな」
 帝がふいに公子の手を掴んだ。
 強い力でグイと引き寄せられ、公子は呆気ないほど容易くその逞しい胸の中に倒れ込む。思いがけず男の胸に頬を押しつける形となってしまった。
 狼狽して離れようとした公子の背にすかさず帝の手が回る。
「諦めろ、今宵、そなたは俺の女になる。それがそなたの運命なのだ、姫」
 耳許で熱く濡れた声が囁いた。
「い、いやっ」
 公子は逃れようと夢中で抗う。軽々と抱き上げられ、御帳台まで運ばれてゆきながらも公子は必死で助けを求めた。
「誰か、来て! 助けてえ、助けて」
 涙が再び溢れ、夜気に溶けて散る。
 いつしか陽は完全に落ち、気紛れな夜がこの世を支配していた。夜の帳がこの静まり返った閨にもひそやかに降りている。
 帝は几帳をめくると、手慣れた様子で抱きかかえてきた公子を無造作に夜具に落とした。背中から布団に落とされた拍子に腰をしたたか打ち付けてしまったらしく、鈍い痛みが走る。