帝VS皇太后。姫を後宮に入れるという息子に母親は、、小説 無垢な姫君は二度、花びらを散らす | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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 その日の夕刻、清涼殿の帝の御座所(おまし)では皇太后安子が美しい眉をひそめて座っていた。
 帝は母君の当惑など素知らぬ顔で対峙している。
「一体、主上は何をお考えなのですか」
 安子は我が生みし子でありながら、今ではあまりにも遠く隔たってしまった帝を見つめた。途端にやるせない気持ちが胸の奥底から湧き上がる。
 昔は、こうではなかった。物心つく前、まだほんの二、三歳の頃は素直で愛らしい子どもだったのに。それが、いつからこんな風になってしまったのだろうか。記憶の糸を手繰り寄せてみても、いつ何をきっかけにして我が子がこんなにも変わってしまったのか、安子には思い付かない。
 ただ、一つだけいえるのは、帝の攻撃的な性格がはっきりと表に現れたのは即位して一年ほど経った頃からだ。丁度、四歳の誕生日を迎えたばかりの日、こんなことがあった。
 帝を伴い、兄である左大臣藤原道遠の屋敷に渡ったことがある。もとより公式の訪問ではなく、供回りの者も数人のお忍びであった。
 あの日、帝は一つ上の従姉と初めて対面した。肩で切りそろえた振り分け髪も愛らしかった公子は、帝の良い遊び相手になるであろうと安子は期待していた。
 ところが―。二人が庭で遊び始めてほどなく、庭からけたたましい子どもの泣き声が響き渡った。
 帝の乳母がすわ何事かと慌てて庭に降りたところ、幼い帝がその場に蹲って泣いている。乳母が訊ねてみても、四歳の帝はただ泣きじゃくっているばかりで、何も応えない。
 その傍らで五つになった公子が所在なげに立ち尽くしていた。困り果てた乳母が公子の方にどうしたのかと訊ねた。
 公子は困った表情で乳母にポツリと呟いた。
―主上が突然、泣き出してしまわれたの。
 どうやら、幼い公子には帝が突如として泣き出した理由が皆目見当もつかないようだった。
 乳母は何げなく視線を動かし、ヒッと小さな悲鳴を上げた。脚許に小さな虫が無惨に踏み潰された状態で転がっている。どうやら、毛虫のようであった。
 帝が小さな身体を震わせながら、乳母に抱きつく。怯えているのだろう、まるで瘧にかかったように身震いしている。
―あの子は、おかしい。変わってる。あんな薄気味の悪い虫を可愛いっていうのだ。それで、私が踏み潰してやったら、怒るんだ。
 その傍で二人のやりとりを聞いていた公子がムッとした顔で言い返す。
―虫だって、ちゃんと生きているのに。いきなり踏み潰して殺してしまうだなんて、可哀想だわ。
 乳母は急いで事の成り行きを母后に伝えた。安子は幼い二人を傍に呼び寄せ、もう一度話を聞いてみたが、乳母の報告と内容はほぼ同じであった。
―毛虫なんか汚くて、気持ち悪いじゃないか。
 帝が頬を膨らませて言うと、安子は微笑んだ。
―主上、確かに毛虫は見ていて気持ちが良いものではございませぬ。ただ、生命あるものをむやみに殺すのは確かに良きこととは申せませぬ。殊にこの国を統べる御身でおわせば、たとえ虫とはいえ、生きとし生けるものには皆、おしなべて等しき情を注がねばならぬこと、ゆめゆめお忘れなさいませぬよう。今後は、そのような無益な殺生はなさいませぬように。
 帝は流石に安子の諭しには逆らわず、不満げに黙り込んだ。
 その時、安子はハッとした。
 帝が公子を憎しみに満ちた眼で睨みつけていたのだ。まだ四歳の頑是ない童ながら、そのあまりにも烈しいまなざしに安子でさえ、ゾッとしたほどであった。
 その出来事は鮮烈な記憶となって、安子のの中に刻み込まれた。
 帝は三歳で即位し、常に周囲には大人ばかりという環境で生い立った。しかも、自分よりもはるかに年上の彼等は帝の臣下であり、表立って帝に逆らうことはない。良い歳をした大の大人が幼児に向かって這いつくばり、平伏し、礼を取る。それが当然と思い込んで育ってきたのである。誰もが自分の言葉に素直に従うものだと信じ込んでいるのに、虫を殺したことを面と向かって公子に詰られた。これまで甘やかされて育った我が儘な帝には、そのことが我慢ならなかったに相違ない。
 あの日を境にして、帝は変わった。
―やはり、あの姫なのか。
 帝を変えたのは公子なのだろうか。
 安子は思わずにはいられない。
 帝の中には、公子への複雑な感情―相反する想いがひしめき合っている。すべてを灼き尽くほどに烈しい憎しみと、それゆえに惹かれずにはおれらない恋情。二つの焔が帝の中で燃え盛り、帝の心を苛んでいる。
 恐らく、二人は出逢うべきではなかったのだ。いつの世にもけして相容れない者たちは存在する。恐らくは帝と公子はそう呼べる者たちなのだろう。
 いや、公子が帝を変えたわけではない。帝の中には生まれたその瞬間から、時として怖ろしいほどにまで冷酷になれる―そんな性癖が潜んでいたのだ。その酷薄さが最もよく現れたのが、かつて大切な儀式の最中にお側に控えていた典侍を陵辱し、死なせてしまった事件であった。
 冷酷であるがゆえに、心優しい公子に惹かれ、なおかつ、その自分とは全く違う優しさに反発する。亡き桐壺更衣祐子が公子と似通っていることは、安子も既に気付いていた。多分、帝が祐子に惹かれたのも、祐子を通して公子の姿をそこに見ていたからに違いない。
 それでも、祐子はまだ従順だった。優しくて大人しやかであり、帝の想いにも応え、一途に恋い慕った。だからこそ、あの二人は幸福な恋人同士になり得たのだ。
 だが、公子はただ優しいだけの姫ではない。あの姫もまたなよやかな外見には似合わず、内に焔のような烈しさを秘めている。厭なものは厭なことと、はっきりと口にする性格だ。生まれつき残忍で酷薄な性格を持つ帝とは何があっても相容れることはないだろう。恐らく、公子は帝のことを嫌っている。残念なことだけれど、それは帝の母である安子にも判った。
「何のお話にございましょう」
 空惚けた表情で返すのに、安子は小さな吐息をつく。
「左大臣の姫のことですよ。もう良い加減に屋敷に戻しておやりになったら、いかがです? 左の大臣もさぞ心配していることでしょう。主上もよくご存じのことかとは思いますが、あの方はなかなか侮れぬ方にございますよ。こちらの味方に付ければ万の味方を得たに等しき頼もしい方にございますが、ひとたび敵に回せば、怖ろしい方。たとえ、主上が血縁状は甥であろうと、尊い御身であろうと、あの方にはそんなことは何でもありません。情け容赦なく踏み潰してしまおうとするでしょう」
 帝がニヤリと口の端を引き上げた。
「それでは、私のこの厄介な性格も実は、伯父上に似たのかもしれませぬな」
 確かに、そのとおりかもしれない―と、安子は思った。帝の父、つまり先帝はただ大人しいだけの凡庸な男で、やはり藤原氏と濃い血の繋がりで結ばれていることから、外戚である関白家の言いなりだった。そんな良人を安子はどれほど物足りなく思ったことだろう。
 たとえ藤原氏直系の娘とはいえ、一度嫁せば、安子は天皇家の人間だった。実家よりも良人や我が子を何より大切なものだと考えてきたのだ。先帝との間に生まれた道明親王―つまり帝は実父である先帝よりも伯父道遠に似ている。端整な顔立ちだけでなく、上辺と中身が全く違う、その怖るべき気性さえも。
 帝も艶やかな美貌を誇り、穏やかな物腰で、外見だけを見れば申し分のない貴公子だ。道遠が温厚篤実な外見と挙措ですべての者を魅了し、従わせずにはおれない圧倒的な存在感を持ちながらも、己れのためなら手段を選ばず、どこまでも酷薄になれるという素顔を持つのと酷似している。
 反目し合うこの伯父と甥は、実はとてもよく似ている。いや、こちらは公子と帝とは対照的で、似ているからこそ余計に反発し合うのだろう。
「俺だって、別にあの男を伯父だなんて思ったことは一度もありませんよ。ですから、安心も油断もしておりませんから、どうかご安堵下さいませ。母上」
「それならば、尚更、姫を一日も早く左大臣の手許にお返しなさいませ。今はまだ表立って何も申してはきておりませぬが、いずれ、姫を帰せと催促してきますよ。姫が私の見舞いにきて体調を崩して、伏せっている―、そんな苦し紛れの言い訳がいつまで通用するとお考えになっていらっしゃるのですか」
 安子の言葉に、帝は含みのない笑みを浮かべた。
「いえ、そのことならば、何も母上がご心配なさることはございませぬ。打つべき手はちゃんと打ってありますゆえ」
「打つべき手―?」
 安子が訝りながら訊ねると、帝は鷹揚に頷いた。
「さようにございます」
「それは、どういうことにございましょう」
 帝は母君の顔を見て、嫣然と笑った。
 こうして見ると、男性でありながら、妖艶なという形容がまさにピタリと当てはまる類稀な美貌の持ち主であることが判る。
「左大臣にはもう私の方から接触していますよ」
「まさか」
 安子は愕きの表情を隠せない。
 その母の反応すらを愉しむかのように、帝は艶めいた笑みを湛えたまま続ける。
「望みのものを手に入れるため、我が目的を遂げるためには手段を選んでいてはいけない―、他ならぬあの男が私に教えてくれたことですから」
「一体、左の大臣に何とおっしゃったのですか!?」
 安子が悲鳴を上げるように叫ぶ。
 帝が凄艶な微笑を刻んだ。酷薄ささえ口許に漂わせて。
「餌を撒いてやりました」
 緊迫した雰囲気が母子の間に満ちる。
「餌?」
 帝は安子の眼を見て、もう一度口の端を引き上げた。
「あの男が喉から手が出るほど欲しいものと引き替えに、姫を寄越せと言ってやったのです」
「それで―、左大臣は何と?」
 安子が力ない声で問う。
 帝が嗤った。
「母上、俺はあの男がもう少しは人らしい情のある男かと思うておりましたが、どうやら、俺の見方は甘かったらしい。何も姫を無理矢理こちらに引き止めておくという回りくどいやり方などせず、最初から言えば良かったのです。姫を私にくれ、と」
「―」
 最早言うべき言葉を持たない安子に、帝は口許を綻ばせた。