英国王立美術家協会名誉会員
廿日出富貴子
歌人、廿日出富貴子が選ばれた理由
シェイクスピア没後400年を迎え、その心に通じる日本の芸術家を選んで欲しい、ということで、廿日出富貴子が選ばれました。芸術家の中で文芸部門は、後にも先にも、廿日出富貴子だけ、廿日出富貴子は唯一無二の歌人とのことでした。母も望んだようにあと10年生きなければならなかったと思います。
8年前、ロンドンの展示会場マルギャラリーズに行き、廿日出富貴子の短歌のお話を聞くことができました。10日前に突然亡くなったことで先方には展示会の不参加を伝えておりましたが、友人らの励ましとサポートで、直前に単身渡英を決意しました。ロンドンのマルギャラリーズに現れた私を、幻を見るような面持ちと歓喜の声で迎えていただいた日は昨日のことのようです。
廿日出富貴子の短歌がシェイクスピアと通じていることはもちろん必須条件だけど、これまでにドイツやイタリアなどヨーロッパの各国で高く評価されてきたから英国が認めたと、つまり、これは、簡単なことではないのだということです。
帰国して、母の49日法要の時、私と同じく母の詳しくを知らない方々、父、兄弟、親戚の方たちに、ロンドンでの報告をしようとして、シェイクスピアを検索しましたら…
シェイクスピアの没
1616年5月3日(グレゴリオ暦)
え?
ギャァー!
鳥肌が立ちました。
廿日出富貴子の没
2016年5月3日
没400年には、深い意味がありますが、
そういうことだったの?
間に合った?
ギリ間に合ったか…
だから、急に逝ったの?
前日の5月2日は母、廿日出富貴子さんのお誕生日です。2日前に急に食欲がなくなったので念のため入院すると母から電話をもらい、病室の番号も教わり、私は急ぎ広島に行きまして、お誕生日だし、前々から欲しいと言っていた私のパイソンのバッグを差し上げて…
少し入院して回復する頃ちょうどロンドンへ行けるね、その翌月の訪タイで国王に近い方々との面会は服装に注意を払うようにねと、冷蔵庫に鯖があるから食べなさい、あれこれ話して、私は、ひとまず帰ります。と新幹線で東京まで戻ってきました。
そして、翌朝、母は元気だとの連絡に安堵し、
しかし、その3時間後の電話では、酸素が上がってこないので、あと一週間の命だと。
急な展開に驚き、とにかく、急ぎ家族で広島へ。
GWに予約なしでもすぐにのぞみ号に乗れました。
そののぞみが京都に着く頃、電話が入り、
もうダメじゃ…
電話で富貴ちゃんに声かけてあげて、と。
私は、突然の展開に動揺しながらも、のぞみのデッキに移動し、
なんで?
富貴ちゃん
昨日、普通に話したよね。なんで?
まだ逝ったらダメ〜
戻ってきて〜
どれだけ叫んだだろう…
息子が来て、
ばあちゃん、もう亡くなったって。
え…
こういう時は、ありがとうを伝えるらしい…
病室で母の臨終を皆で見守りながら、私の大声は、どのように処理されていたのであろうか…
あとの祭りである…
それにしても、今日逝くなら、昨日私に、もう少しここに居なさいとなんで言わんかったん?
亡くなる日の朝、ジュースとドリンクを少し飲んで、お元気だった富貴子さんは、相変わらずずっとおしゃべりをしていたとのことです。父が手を握るも、
大丈夫よ。死にゃあせん、心配しなさんな、少し寝る。
と落ち着いて寝ておられると皆思っていたところに、看護師さんが来られて、
これは大変‼︎
廿日出さん!
廿日出さん!
となったようです。
母も、おしゃべりに疲れ少し寝るつもりで、まさか亡くなるとの自覚はなかったのではないでしょうか。この3日間の急展開に本人も誰も付いていけてない状況でした。
こんな風にあれこれのどうして?がありましたが、
ロンドンに行き、母の功績を知り、シェイクスピア没後400年の日を知り、なぜ急にみまからねばならなかったのか納得した気がします。程なくタイの国王ラーマ9世も崩御され、日本の文芸に興味をお待ちだったとのこと、あちらで面会しているのかなと想像しております。
余談ですが、
母と英国に縁ができ、母の亡くなる1年前、ウィリアム王太子と公妃キャサリンにシャーロット王女が生まれました。
母は自分の誕生日と同じ5月2日に生まれると思っていたのよ。何かとご縁があるわねえと祝っておりました。