弘前市役所ねぷた実行委員会・絵師 三浦 吞龍





初日の運行には無かった町印が追加されました。弘前市は群馬県太田市と北海道斜里町と友好都市の交流で40周年を迎えました。
元々群馬県尾島町が津軽藩の飛び地だった関係で友好都市だったのですが、太田市に合併されて太田市が弘前市と友好都市になりました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の功績により、弘前藩に与えられた飛び地領の中心地であったことが縁となり、ねぷたまつりや小・中学生の交流事業など多くの分野で交流の輪が広がっており、平成18年(2006年)11月に群馬県太田市と友好都市提携の盟約を締結しています。
江戸時代の弘前藩は、本州最北端にあったことから蝦夷地との関係が深く、文化4年(1807年)には蝦夷地周辺に出没するロシア船の襲撃に備えて、幕府の命令で1,000名を超える弘前藩士たちが蝦夷地に渡り、宗谷・松前・江差・択捉・斜里において警備にあたりました。
斜里には弘前藩士100名が派遣されたものの、厳しい越冬生活などのため、斜里の地で72名が亡くなるという惨事があり、途中での病気帰国者などを除くと、文化5年に任を解かれて弘前に帰り着いた者はわずか17名でした。
この弘前藩士の殉難事件が明らかになったのは昭和28年(1953年)に東京・神田の古本屋で弘前藩士の齋藤勝利氏が遺した「松前詰合日記」が発見されたことが発端でした。
その後、斜里町郷土史研究会の方々の熱心な研究で歴史的事実が明らかとなり、弘前藩士の殉難事件を知った斜里町の皆様により、昭和48年(1973年)斜里町内の町民公園に「津軽藩士殉難慰霊碑」が建立され第1回慰霊祭が挙行された。
昭和57年(1982年)には慰霊碑建立10周年記念となった第10回慰霊祭に当時の弘前市長が参列したことを契機に、斜里町との間に友好都市の機運が高まり、昭和58年(1983年)2月に弘前市が友好都市盟約を締結しました。
ねぷた絵は前ねぷたが弘前市役所職員の川村麗巴さんが描き、本ねぷたが弘前市博物館で元館長の三浦呑龍さんが描いているのが特徴です。




