


余湖さんのサイトによると藩政時代は厩戸で、武士が乗る馬の待機場所となっていました。
広めの空間が元は厩戸(うまや)でした。弘前城五層天守鳥瞰図では、下乗橋の奥の広場は馬出と書かれていました。
江戸時代前期の弘前城本丸地図によると、弘前城五層天守跡が見られます。これが後に本丸未申櫓となり、天守台も櫓台に縮小されました。
馬出の先には武者屯(むしゃだまり)門があって、合戦の際に大将が軍装を整えて大号令を発する場所にも使われたそうです。
武者屯門の奥には番屋があってその奥の門から左手に弘前城五層天守、右手に本丸御殿があり、津軽藩主や侍が生活をする拠点となっていました。五層天守跡は、現在の本丸未申櫓跡です。西の郭からこちらを眺めると、五層天守跡の石垣が立派に積まれています。
馬出の西側は急峻な崖となっていて敵が攻め入るのを防いでいます。こちらは現在整備され、西の郭に向かう鶴の坂がもみじ谷に通じます。
