



中央の銀(しろがね)町とは、現代の白銀町で上白銀町と下白銀町があります。下白銀町には弘前市役所や東奥日報の弘前支社があります。
存在しなくなった町名は、足軽町→本町、さやし町→横町の南側に下鞘師町として存在、志わく町→塩分町、本百石町→馬屋町(弘前工業高校の敷地)、座頭町・黒石町も存在しません。
寺院は曹洞宗が茂森町の西に禅林街として全て集まり、南西を護る裏鬼門となりました。寺町は慶安二年(1649)に寺院街の一画が焼失した大火に襲われ、15の寺院が南溜池の南西に移動して新寺町となりました。
四の丸と三の丸と二の丸にあたる地域は武士や家臣の家がありました。外濠の外側に商人が住んでいて、職業の名前が町名になりました。
当時はリンゴが栽培されていなかったので、コメ農家が殆どでした。リンゴが持ち込まれたのは明治時代に入ってから。無職となった武士が生計を経てるため、リンゴ農家になりました。(ブラタモリ弘前より引用)
ちなみに溜池は埋め立てられて南塘町となり、弘前大学医学部の野球場があります。周辺には弘前大学医学部の建物などが林立しています。
マメピーさんのTwitterより抜粋
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