

1951年(昭和26年)、青森県立青森高等学校入学し、新聞部、文芸部に所属する。「山彦俳句会」を結成し、高校1年生の終わり頃「校内俳句大会」を主催。全国学生俳句会議結成。俳句改革運動を全国に呼びかける。
1954年(昭和29年)、早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。山田太一とは同級だった。早稲田大学短歌会に入る。
寺山は短歌研究の第二回五十首詠に「父還せ」と題して応募した。短歌研究編集長の中井英夫は寺山の作品を特選とした。
中井英夫は特選とした寺山修司の「父還せ」の発表に際して、多くの配慮をした。まず題名を「チェホフ祭」とし、既存歌壇からの反発などを考慮して17首を削り、短歌研究1954年11月号に第二回五十首詠特選として発表した。
混合性腎臓炎で社会保険中央総合病院に入院。1955年(昭和30年)、ネフローゼと診断されて長期入院となり、翌年、在学1年足らずで退学、生活保護を受ける。この時代の輸血技術は洗練されたものではなかったが、当時としては唯一の治療法であった。
前述の説明を医師から受けた寺山は、この頃から自身の死を意識し始め、友人の横尾忠則に「長くは生きられない」ともらしていたと言う。そして、実際これが晩年の肝硬変を引き起こしたと言われている。