

当時人口が80万人規模だった札幌において、地下鉄建設には当時の大蔵省が赤字を懸念して建設補助に難色を示し「札幌の中山峠には熊が出るそうですがそんなところに地下鉄を走らせて熊を乗せるつもりですか」との発言に、大刀局長は「熊でもジェンコ(金)さえ払えば乗せますよ」と発したやり取りの記録が残っている。
1967年(昭和42年)12月の定例市議会で南北線真駒内 - 北24条間の建設が可決され、直ちに免許が申請。しかし運輸省が管轄する地方鉄道法、建設省が管轄する軌道法のいずれにも承認が得られず、国会議員の協力を得て地方鉄道法での建設に決着。
当時の地方鉄道法には、既存の鉄軌条やモノレールにも当てはまらない独自の形式であったため、関係省令を一部改正して「案内軌条式鉄道」の項目を設けた上で認可された。その後、建設省側からは南北線の高架部分建設に関し事細かな注文が入り、当初中心市街地のみを地下化とする計画が大半の区間を地下化する形に変更された。
