社団法人青森青年会議所 | スチャラカでスーダラな日々

スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

社団法人青森青年会議所・ねぶた師 内山 龍星

村上 義光(むらかみ よしてる、生年不詳 - 1333年4月15日)は、鎌倉時代末期の武将。
『太平記』では元弘の変の頃、笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉した9名の1人として登場する。

道中、十津川郷で敵方の土豪・芋瀬庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞うが、芋瀬は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人、若しくは一戦交えた事を示すために御旗を寄越せ」と返答した。そこで供奉した9名の1人、赤松則祐が親王の御為と名乗り出て「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったてもかまわない」と言った。しかし、供奉した9名の1人、平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけない。御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れる」と言い、親王はこれを聞き入れて大事な錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を乗り越えた。

遅れてやってきた義光も芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ、4、5丈(1丈約3mなので、12~15m)ほどかなたに投げつけた。義光の怪力に恐れをなし芋瀬庄司は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸て親王一行を追いかけ無事に追いついた。

村上義光 錦旗奪還
村上義光 錦旗奪還・鏡絵

村上義光 錦旗奪還・送り絵
村上義光 錦旗奪還・送り絵

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