冨田勲とシンセサイザー | スチャラカでスーダラな日々

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故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

昭和55年「YMO」

1970年代初期のモーグ製品NHKの大河ドラマやアニメーション番組などの音楽を作曲していた冨田勲は、大阪万博の東芝IHI館の音楽を担当した当時、3か月ほど大阪に滞在した。その時訪れた輸入レコード店で『スイッチト・オン・バッハ』と出会い、このモーグ・シンセサイザーのみで演奏されたアルバムを知ったが「せっかくモーグ・シンセサイザーを使っていながら音色の趣向を凝らしていない」と懐疑的な感想を持った。自分ならば、モーグ・シンセサイザーによって「オーケストラに感じていた限界を打ち破り、実現でき得なかった夢を叶える」ことができると考え、またこれは「将来極めて重要なものになる」との予感からモーグ・シンセサイザーの購入を決意した。

モーグ社の記録によると、1971年10月頃、モーグIII-P(ポータブル・キャビネット型)が飛鳥貿易を経由して日本に出荷され、それが冨田勲に渡ったとされている。そのモーグ・シンセサイザーについてきた取扱説明書は分かりにくく、コードをつないでも不快な音しか出ず「これはなんとかしないと、1,000万円も出してアメリカから鉄くずを買ってしまったことになる」と当初は焦ったと冨田は述懐しているが、操作に習熟すると音作りに没頭する。やがて、CBSソニーから『スイッチト・オン・ヒット&ロック』(1972年)を発表。本作は、生のリズムセクションにシンセサイザーの上モノをダビングした、俗にいう「モーグ・レコード」のスタイルだったが、その後ドビュッシーのピアノ曲をモチーフにしたアルバム『月の光』(1974年)で独自の色彩的表現を開花させた。

冨田勲 新日本紀行