日航ジャンボ機墜落事故 | スチャラカでスーダラな日々

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故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

日航ジャンボ機墜落事故

日航ジャンボ機墜落事故日本航空123便墜落事故は、1985年8月12日18時56分に、日本航空123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747SR-46(機体記号JA8119)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落した事故である。

運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2011年11月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多である。

夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれることもある。

1987年6月19日に航空事故調査委員会が公表した報告書では、同機が1978年6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故後の、ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。これをもって公式な原因調査は終了している。航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声があるが、現在に至るまで行われていない。

JAL123便事故Kさん救出ニュース映像

この旅客機に乗り合わせていた坂本九は1985年8月12日、日本航空123便墜落事故に遭遇、43歳で死亡した。

事故当日はNHK-FMでの仕事を終えた後に、大阪府にある友人の選挙応援として事務所開きに駆けつける途中であった。九は本来、国内移動には日本航空ではなく必ず全日空を使っており、所属プロダクションや由紀子夫人も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった。しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便であった。そのため、家族も乗客名簿が発表されるまで日本航空機に乗っているはずがないと信じていた。

しかし、乗客名簿の中に「オオシマ・ヒサシ」と「コミヤ・カツヒロ」(小宮勝広、九のマネージャー)の名が出て、事故に遭遇したことは否定できない事実となった。この事故で運命を共にした小宮は早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、お盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。九、そして小宮の両名は、政治家や著名人が利用することの多いボーイング747-100の2階席、右列の前方から4番目に搭乗していた。

事故の数日前、「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの謝りの電話が入っているが、当時電話をうけとった夫人は忙しく、また勘違いをしていたこともあり、事故がおこるまでとくに気に留めていなかった(由紀子夫人の後日談)。九は、ハンティング・ワールドのボストンバッグを機内に持ち込んでおり、墜落現場で発見・回収された。その中に録音可能なテープレコーダーが入っていたため、家族は遺言が残っていないかと期待したが、何も録音されていなかった(由紀子夫人の後日談より)。

事故翌日の8月13日には、事前収録の九本人が出演する、フジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』200回記念が放送された。この時点では安否分からずの状態であったため、敢えて放送された。墜落から99時間後の16日、家族らによって遺体が確認された(遺骸が発見されたのは14日頃)。