![モスクワ大公国](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F3%2F30%2FMoscow1500.png%2F585px-Moscow1500.png)
Wikipediaより抜粋
![モスクワ大公国国章](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2Fb%2Fbb%2FCoat_of_Arms_of_Moscow.svg%2F200px-Coat_of_Arms_of_Moscow.svg.png)
モスクワ公国はもとは北東ルーシの小公国であった。従って、元来はキエフの公権力よりはノヴゴロドの公権力を受け継ぐ国家で、君主の称号でも、あるいは対外的な文書においても、北東ルーシを指して「モスクワはルーシの後継者」であると表現していた。住民についても元来はキエフ系の住民ではなく、現地の東スラヴ人とフィン人の融合した独自の民族・文化・社会慣習を持っていた。これに、後代になってキエフ・ルーシの内紛やモンゴルのルーシ侵攻などから逃げてきたキエフからの難民が加わった。
それが、国力を蓄えるに従い、15世紀末以降キエフ・ルーシの相続人を自認し始めた。その大きな理由は、キエフ府主教座がモスクワへ遷座したことである。とりわけ帝政期ロシア史学はこうした見方を無意識のうちに引き継いだ。これに対し、ウクライナでは19世紀のフルシェフスキー以来、キエフ・ルーシの継承国家をハールィチ・ルーシ、リトアニア・ルーシとする見方が登場し、着実に根を張った。こうした二つの見方の対立はソ連の研究史において表面上はやや緩和されたが、全体としてはモスクワを後継国家とする見方が強かったと言える。ソ連崩壊後、双方の見方はナショナリズムと結び付き鋭く対立したが、その一方で両国の一流の研究者はこうした対立とは距離を置いている。自国のみを正統的相続人とする見方は、歴史を一瞥すれば一面的な見方であることは明らかだからである。しかし「相続人」をめぐる問題は両国のアイデンティティと関わるが故に、とりわけ教科書レベルではさほど冷静とは言えない記述が散見される。