植木屋 | スチャラカでスーダラな日々

スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

本日は植木 等さんがお亡くなりになって三回忌ですので、恒例の植木等特集をします。

植木 等/少年少女合唱隊

植木等植木 等は国民的スターとして人気を集めた1960年代、活躍の中心は『シャボン玉ホリデー』をはじめとするテレビバラエティと、『無責任シリーズ』『日本一の男シリーズ』などの一連の東宝映画であった。

映画に関しては、最初はスーダラ節の大ヒットを受けて大映で2本の映画が作られたが、こちらでは植木等やクレージー・キャッツが川崎敬三や川口浩に主役を譲る脇役出演であり、是非植木に主役を演じさせたいと熱望する渡辺プロダクションの渡辺晋社長が企画を持ちまわった結果、東宝でゴー・サインが出た。そして作られた2部作『ニッポン無責任時代』『ニッポン無責任野郎』は、「無責任」という流行語とともに当時社会現象となった。この無責任男の破天荒なキャラについて、植木は後年「『ニッポン無責任時代』の古澤憲吾監督にはまず「笑ってみろ」と言われて色々演じてみたけどOKがもらえず、そのうち怒り出した監督から『植木君、君が演じようとしているこの男は異常なんだよ!』と言われ、それで吹っ切れてキャラが出来上がった」と回想している。

その後、『ニッポン無責任時代』の初期の企画を立てた脚本家・田波靖男のマンネリ化に対する危機感や、当時東宝の製作本部長だった藤本真澄の意向もあって、植木が演じるキャラクターも無責任型から有言実行型のスーパー・サラリーマンへと方針転換し、無責任シリーズは日本一の男シリーズへと変化を遂げる。一方、同時進行で製作されていたクレージーキャッツ全体を主人公としたクレージー作戦シリーズにおいては、田波自身が「無責任へのアンチテーゼ」とする『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(1963年)も製作された。

植木等その結果、作品によっては古典的な熱血サラリーマン像も顔を覗かせるようになり、小林信彦ら初期作品の支持者に作品的低迷を批判されるようになる(ただし、小林は1963年から、渡辺プロダクションでクレージーキャッツのブレインを務めるようになり、身内として「とにかく作ればあたる」状態になった植木・クレージー映画を、冷静にみて批評することができないと書いている。)。

1960年代後半になると連戦連勝の爆発的ヒットを受けてクレージー・シリーズが大作化していったのに対して、植木主演の日本一の男シリーズは、佐々木守や早坂暁などの新進脚本家や須川栄三のような時代性を如実に反映する監督の参加もあり、全共闘時代を反映してシニカルで風刺の効いたものとなっていく。1960年代末には徐々に動員力が低下し、ザ・ドリフターズのブレイクも影響して、植木の東宝映画主演は1971年の『日本一のショック男』で打ち止めとなる。このシリーズ最後の作品は、加藤茶とのコンビ主演作であった。

加藤茶&植木等 夢の競演